tag:blogger.com,1999:blog-64512500440861499102008-07-20T23:00:42.412+09:00唯人ブログ唯人http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182noreply@blogger.comBlogger110125tag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-43007409886107707352008-07-20T22:18:00.006+09:002008-07-20T23:00:42.423+09:00男と女<a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://bp2.blogger.com/_U-0nWGwLEdY/SINElGn9PXI/AAAAAAAAANw/U-pecJYG0Es/s1600-h/070620_130937.JPG"><img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://bp2.blogger.com/_U-0nWGwLEdY/SINElGn9PXI/AAAAAAAAANw/U-pecJYG0Es/s200/070620_130937.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5225095396903959922" /></a>人間はだれでも男か女かとして生まれてくる。男でも女でもない人間などどこにもいない。しかも、だれ一人としてこれを自分の意志で選び取ったわけではない。皆、この世に生まれてきた時、男か女かであるのだ。こういうことを考えてみると、この世の中には、自分の意志だけで決めることができないものがあるのだということに気付かざるをえない。何でも主体性を持って生きていこうとすることは、決して間違ったことではなく、依頼心を持って生きていくよりははるかにましな生き方だと思うけれども、何から何まで自分の意志で決められるものではないことの証拠が、出生において出て来ることを知らなければならないだろう。<br /><br />それなら、私たちが男として、あるいは女として生まれてくるということは、だれが決めたのだろうか。親であるとも言えない。親はもしかしたら、次に生まれてくる子供を、その前のことは反対の性を考えていたかもしれない。私の知っている人で、六人姉妹の人がいる。親は、今度こそ男であるようにと願ったのに、生まれてきた子供は六人とも女の子だったのである。だから、親の意思によって性別が決まるわけではないことは明らかである。<br /><br />私たちが男か女かとしてこの世に生まれてくるのを決定したのは、人間ではなく、私たちに命を与えてくださる神なのである。性ということだけに限って考えても、そのことはよく分る。毎年生まれてくる赤ん坊は、男女共ほぼ同数であるということは、人間のだれがそんなことをすることができるだろう。丙午(ひのえうま)の年に生まれる女の子は結婚してくれる人がいないといった迷信は、今でもかなりの人が信じているらしく、その年の子供の出生数は極めて少ない。今年四十二歳になる人がそうなのだが、その年は他の年と比べると、極端に少ないのだ。しかし、少ないけれども、それは女性だけではなく、男性の方も少なく、男女の比率はほぼ同数なのである。人間がいくら小細工をしても、神のなさることは依然変ることがないということを、この事実ははっきり示しているのではないだろうか。<br /><br />だから、私たちは、この事を厳粛に受けとめる必要があると思う。つまり、私たちは神によって男か女かに召されたのである。このことが分ると、男として召された人はそのことを、女として召された人もそのことを自覚し、神が召してくださった以上、そこには与えられた使命があるのだということを自覚することができ、そこに男の生きがい、女の生きがいを見出すことができると思う。<br /><br />今日なお男女間に差別があることは事実である。それゆえ、女と生まれてきて、損をしたとか、貧乏くじを引いたと感じている女性がいることも事実である。男女間の差別撤廃のために私たち男性が力を尽すことは当然のことだが、それと同時に、女性自身が生きがいを見出す努力をすることも必要だと思う。<br /><br />女性の生きがいは、女性としての誇りから生まれてくるのではないかと思う。女性でなければできないものがあることの自覚から始まるだろうと思う。その重要なものの一つは、女性が子供を産むということである。どんなに時代が変り、あらゆるものが進歩していったとしても、男性が子供を産む時代は来ない。もちろん、女性だけに子育てを任せてしまうことがよくないことは十分分っているつもりだが、授乳、子育ての中心は母親である女性なのである。だから、女性は幼い頃から母性本能を持っている。ままごと遊びをしている時、女の子はいつも人形を赤ん坊にしつらえ、母親として面倒を見ようとしている。この女性にしかできない仕事の中で最も重要な子育てこそ、次代を背負う子供を育てることになるのである。次の時代などどうなっても構わないと考える無責任人間ならいざ知らず、次の世代の責任を感じる人なら、この世のいかなる仕事よりも重要な子育てに誇りを持たなければならないだろうと思う。<br /><br />こうした女性の生きがいは、どこから生まれて来るのかといえば、自分が女性として召されているということの自覚からだと思う。神がこの尊い働きへと自分を召してくださったのだという自覚からである。<br /><br />子育てをだれにでもできる簡単な働きだと考え、それよりも社会に出て、社会に貢献する働きをしたいと考える人が案外多いようだが、私は人間を育成する働き以上に大切な働きはないのだと言いたい。社会で働く働きは、同じ能力を持っている人ならだれでもよいのだが、子育てはそうはいかない。その子供にとって世界広しと言えども母親はただ一人しかいない。その人の愛情がなければ、健全な人格を持った人には育っていかないのである。<br /><br />神が私たちを男か女に召しておられるということが本当に分ってくると、私たちにはそこから自ずと男の生きがい、女の生きがいが生まれてくる。そして男だけ、女だけの働きと同時に、男と女の協力なしでは出来ない働きがあるのだということも分ってくるはずだ。唯人http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-22431154911532055142008-07-13T23:17:00.005+09:002008-07-13T23:43:06.443+09:00キリスト教の葬式<a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://www.yogunsha.com/publication.html#shienosonae"><img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;width: 140px;" src="http://www.yogunsha.com/publication_img/books/sihenosonae.jpg" border="0" alt="" /></a>クリスチャンの葬式は、そこにクリスチャンの死についての考え方がはっきり表れている。私たちは、死を暗いじめじめしたものとは考えない。むしろ天国を思わせるような美しい花で飾り、神を賛美し、神の言葉である聖書から、遺族や参列者に対する慰めや勧めの言葉が語られる。死んだ人はもうそこにはいない。そこにあるものは、死んだ人の遺体で、死んだ人の霊はもうそこにはいない。だから、死んだ人の霊を慰めるとか、その人を祀るのではない。その人の霊は、もうパラダイスにあって、神とのすばらしい時を持っている。<br /><br />クリスチャンでない人は、死んだ人の冥福を祈ったり、成仏するようにと祈ったりする。けれども、クリスチャンは、人が死んだとき、その人の生前の生き方によって、パラダイスかハデス(よみ)かにはっきり分かれてしまい、私たちが何かをすること、その人をパラダイスへ行くようにすることはできないことを知っている。だから、人の死後、冥福を祈ったりしない。葬式は、死んだ人の運命を左右するためのものではなく、むしろ遺族、知人、友人のため、つまり生き残っている人々のためなのだ。その人々がやがて自分の身の上にも起こって来る死に対して、心の備えができるようにという目的がある。<br /><br />死んだ人の運命を左右するのは、今生きている人なのではない。死んだその人自身なのだ。その人が生きていた時、神のご好意として用意されていた救いを受け入れたか、それとも拒絶したかに掛っている。だから、葬式もおのずとそのことを表すことになる。<br /><br />クリスチャンにとって、葬式は、最後の証の場でもある。自分がクリスチャンであったということを、他の人に知っていただく良い機会である。だから、そのような準備をあらかじめしておくことが必要だ。葬式に限らず、人が死んだ後は、とかくごたごたが起りがちだ。それは、生前、自分の身辺のことについて、きちっとした整理ができていなかったがためだ。遺産の問題を始め、いろいろな問題が起りがちだ。そういうわけで、問題が起きないように、よく処理しておくことが大切だと思う。それだけではなく、葬式のことについても、はっきり指示しておく必要がある。<br /><br />キリスト教の葬式は、普通、葬式とその前夜行われる前夜式がある。前夜式というのは、仏教式で行われるお通夜とは違い、夜通し眠らずに行うのではない。一定の時間を限って行う。賛美、祈り、聖書朗読、説教が行われる。その後、故人の思い出話をしながら、個人をこの世に送り、天に取り上げられた神に感謝する時を持つのもよいことだと思う。最近では、翌日の葬式に来られない人が前夜式に来るため、葬式よりも多くの参列者があることが多くなっている。<br /><br />葬式は、死んだ人をこの世に送り、天に取り去られた神を礼拝する礼拝である。死んだ人を拝んだり、その人が天国へ行けるように祈る行事ではない。その人が生前イエス・キリストの救いにあずかっていたのであれば、当然パラダイスに行ったのであり、今さらそうなることを祈る必要など毛頭ない。むしろ、後に残された遺族を慰め、励まし、またそこに列席する故人の知人、友人などに、やがて迎えなければならない自分の死に対する心の備えをするように勧める時でもある。<br /><br />したがって、葬式は棺に納めた遺体を正面には置くけれども、その周りを生花で飾る。キリスト教の葬式では、造花は使わない。そして、花につける名札も取ってしまう。人間が前面に出て来るのではなく、神が前面に出てくるべきだからなのである。周りの壁は、天国を思わせるように白布で覆い、余計なものはなるべく置かない。後で献花をする場合には、献花台を用意しておく必要がある。<br /><br />葬式の日取りだが、死んでから二十四時間経たないと火葬することはできないので、そのことはあらかじめ承知しておかなければならない。火葬場は普通、友引の日が休日だから、その日に火葬場へ遺体を持って行くことはできない。だから、葬式の直後、火葬場へ遺体を持って行く場合には、友引かどうか調べておかなければならない。葬儀屋に聞けば分ることだ。クリスチャンは、もちろん友引など問題にすることはないのだが、火葬場が休みではどうにもならない。<br /><br />ところで、葬式の式次第は全部、司式牧師にお任せしなければならないのだが、その中で弔辞を述べる箇所がある。その時、世間一般では、そこにある遺体に呼びかけるような言い方をするが、クリスチャンの場合、「あなたは・・・」などと言うべきではなく、「○○さんは・・・でした」というように話すべきである。故人はもうそこにはいないのだから。献花をするのは、故人に対する愛惜のしるしであって、それをすることによって、故人の霊を慰めたり、故人に拝礼をすることではない。この件に関してさらに詳しく知りたい方は、拙著<a href="http://www.yogunsha.com/publication.html#shienosonae">「死への備え」(いのちのことば社)</a>を参照されたい。唯人http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-35260856867573678312008-07-06T21:06:00.004+09:002008-07-06T21:16:27.507+09:00人は死んだらどうなるか<a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://bp2.blogger.com/_U-0nWGwLEdY/SHC3QkW-doI/AAAAAAAAANg/qkAkvg1rJNA/s1600-h/DSC07125.jpg"><img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://bp2.blogger.com/_U-0nWGwLEdY/SHC3QkW-doI/AAAAAAAAANg/qkAkvg1rJNA/s200/DSC07125.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5219873463388239490" /></a>人間が生きているということは、霊と肉体が不可分離的に結合している状態であり、死ぬということは、この霊と肉体との結合が解かれることである。考えてみれば、本当に不思議なことだと思う。霊と肉体という全く次元の違った二つのものが結合しているのだから、これほど不思議なことはない。この不思議な結合が、ある日突然崩れ、霊はそのまま生き続けるが、肉体は土に帰っていく。これを死と呼ぶのだ。<br /><br />霊は、肉体と結合している間は、肉体によって制約され、時間と空間の法則の下にある肉体とともに生きなければならないが、死ぬと肉体から解放され、自由になる。しかし、自由になったからといって、自分のしたいことができるわけではない。地上においてどういう生き方をしたかによって、主イエス・キリストと共にパラダイスに行くか、それとも暗黒と苦しみしかないハデス(よみ)に行くかのどちらかだ。そして、やがてキリストが再び来られて、この世が終りになる時、体が復活して霊的体となり、それが再び霊と結合して、パラダイスにいた人は天国へ、ハデス(よみ)にいた人は永遠に地獄へと入れられてしまう。<br /><br />この世にいた時、どのような生き方をしたかが、人間の永遠の運命をこのように二分してしまうとすれば、この世にいる時の生き方は、極めて重大であると言わなければならない。それではどのような生き方をすれば天国へ行き、どのような生き方をすれば地獄へ行ってしまうのだろうか。人間は、生まれながらエゴイストであり、自分さえよければよいのだという考え方を持っている。聖書では、それを罪人(つみびと)と呼び、罪人のままでは滅び(破滅)に至る運命にある。<br /><br />しかし、神は憐み深いお方で、私たち滅び行く運命にある罪人を救うために、救いの道を用意してくださった。だから、この神のご好意を感謝して受けるなら、私たちはだれでも天国へ行くことができるのであり、それを拒むなら、私たちは地獄へ行かなければならない。神のご好意を素直に受け入れる生き方をするか、それともそれを拒む生き方をするかが、人生の分れ道になってしまうわけである。神のご好意を受け入れるなら、神は恵みによって私たちの罪を赦し、私たちを罪から救ってくださる。だから、このような救いを受け入れる生き方こそ重要なのであって、そのような生き方をするようにと聖書は繰り返し私たちに勧めている。<br /><br />人が死を恐れるのは、死の後に裁きがあるからだ。人類が罪に陥って以来、自然死のほかに、罪の裁きという意味が加わった。そのため、死を恐れるようになった。死は確かに不気味だ。しかし、罪が入って来なかったら、不気味というだけで、死に対する恐れはなかっただろう。けれども、今はだれでも死に対する恐怖に恐れおののいている。<br /><br />だから、この罪の問題が解決しなければ、私たちは死を恐れ続けなければならないのだ。クリスチャンというのは、この罪の問題を解決した人々、つまりキリストによって罪を赦していただいた人々だ。だから、死に対して恐れを抱かなくなった。しかし、クリスチャンにもなお自然死はあるわけで、それは、天国への入り口という意味に変った。朽ちゆく肉体を持ったまま、天国へ入ることはできない。だから、肉体を脱ぎ捨て、やがてキリストが再臨されるこの世の終りの時に、復活して、霊的体が与えられ、天国に入ることができる。<br /><br />クリスチャンが死を恐れない理由、および死に際してノンクリスチャンのように悲しまない理由がここにある。もう一度、天国でもっと確実な方法で愛する人と会うことができるからだ。この世の生は短く、一時的だが、天国での生は永遠に続く。クリスチャンは、この永遠の生への備えをしている者たちなのである。<br /><br />だからと言って、クリスチャンは死を喜んで迎えるというのも、必ずしも当を得ているとは言えない。この地上におけるしばしの別れでさえも、寂しく悲しいものなのだから、ましてこの世ではもう再び会えない死出の別れを、寂しくまた悲しく思わないわけがない。しかし、クリスチャンの死別は、それが永遠の別れではなく、再会の希望のある別れだから、そこには平安があり、また期待がある。そういう意味で、喜びもまたあると言うことができる。ただ死ぬのが嬉しいというのとは違う。<br /><br />だから、クリスチャンは、死に際して決してあわてることがない。日ごろ親しく交わっている神のみもとに行くのだから、そういう意味では、あわてるどころか喜びで一杯だ。私たち人間は、遅かれ早かれ、この世界の創造主である神の御前に立たなければならない。だから、だれも皆、神に会う備えをしていなければならない。それができているのがクリスチャンである。<br /><br />そういうわけで、クリスチャンの葬式は、死んだ人をあがめたり死んだ人の霊を慰めるのではなく、その人をこの世に送り、また取られた神をあがめる礼拝なのである。唯人http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-75667936054746678832008-06-29T21:42:00.005+09:002008-06-29T21:55:18.353+09:00死とは何か<a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://bp1.blogger.com/_U-0nWGwLEdY/SGeFyq7aAGI/AAAAAAAAANY/dXoL9RoYC98/s1600-h/080611_172235.JPG"><img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://bp1.blogger.com/_U-0nWGwLEdY/SGeFyq7aAGI/AAAAAAAAANY/dXoL9RoYC98/s200/080611_172235.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5217285798895419490" /></a>死は何かと聞かれれば、生命活動の停止のことだと答えることができると思う。ところで、ただそれだけではない。<br /><br />聖書を見ると、「死」と言う場合、三つの死がそこに表わされている。第一は、「肉体の死」で、これはだれにでもよく分る。普通「死」と言えば、このことである。ところで、聖書では、それとは別の死を述べている。その一つは、「霊的死」である。これがなかなか分りにくいのだが、聖書は次のように述べている。<br /><blockquote>「あなたがたは、以前は、自分の持っている罪のために、神から離れ、道徳面で無力な死んだ存在であった。」(エペソ2:1)</blockquote><br />「道徳面で無力な死んだ存在」とはどういうことかと言うと、善いことが何であるかが分っていても、それを行なうことができなくて、悪いことを行なってしまうということだ。たとえば、学校でほかの人が試験の時にカンニングしている時、それが悪いとは思いつつも、自分もやってしまうということを考えてみると、よく分ると思う。つまり、この世の流れに流されてしまうのが、その特徴であると言うことができるだろう。<br /><br />川の流れを考えてみたらよく分る。命のあるのものは、どんなに流れが急であっても、流れに逆らって上流に行くことができる。鮎でも鯉でも鮭でもみなそうだ。ところが、命のないものは流されていってしまう。<br /><br />この世においても、霊的命のあるなしは、その流れに抗して立ちうるか、それとも流れに流されるかによって決ってくる。学生時代この世の流れに流されつけてきた人々は、社会に出ると、同じような生き方をしてしまう。職場ぐるみで不正がなされている時、「ノー」と言うことができないため、後でその不正がばれた時、その不正をした人たちの中に入ってしまうことになるのである。その時になって後悔してももう遅いのである。これが、霊的に死んでいる人の姿であると言うことができる。<br /><br />ところで、もう一つの死がある。それが「永遠の死」なのである。死ということを存在の絶滅と考えている人にとって、永遠の死とは永遠に存在を失うことだと考えやすいのだが、そうではなく、永遠に存在し続けるのだが、祝福の源である神から永遠に切り離されることなのである。これほど恐ろしいことはない。<br /><br />この世においては、生きていくのに苦しくなると、自殺をしたり、あるいは発狂することがある。しかし、この永遠の死というのは、自殺することもできず、発狂することもできない。苦しみを永遠に味わい続けなければならないのである。これほど恐ろしいことがあるだろうか。<br /><br />聖書が「命」とか「死」と言う場合、それは単に生命活動の有無を意味しているのではない。命は神の祝福を表わし、死は呪いを意味する。だから、永遠の死とは、永遠に呪われ続けるということであり、永遠の命とは、永遠に神の祝福を受け続けるということである。<br /><br />最初の人アダムが罪を犯したことによって人類に死がもたらされたと聖書は教えている。<br /><blockquote>「一人のアダムによって罪がこの世界の中に入って来、罪の結果、死が入って来た。そしてすべての人が罪を犯したので、死は全人類に広がっていった。」(ローマ5:12)</blockquote><br />それでは、アダムが罪を犯さなかったら、アダムは永遠に生きることができたのであろうか。そんなことはない。神の披造物には、皆初めがあると共に終りがある。つまり、罪を犯さなくても、自然的死はあったはずである。アダムが罪を犯したことによって死が入って来たという場合、その死は罪の刑罰という意味での死であった。すべての人が死を恐れるのは、その死のことなのである。<br /><br />クリスチャンは罪赦されたことを自覚している人々である。それなのに、なぜクリスチャンも死ぬのかと思う人がいるかもしれない。それは罪の刑罰としての死なのではなく、自然的死にほかならない。罪の刑罰としての死はもはや取り去られた。だから、クリスチャンにとって、死は肉体から解放されて、天国へ行く門口という意味になったのである。そういうわけで、クリスチャンはもう死を恐れない。恐れないどころか、天国へ行って、愛する主イエス・キリストのみもとにいつまでもいることができる契機なのである。これはどすばらしいことはないわけである。<br /><br />クリスチャンはもはや死を恐れない。この世において与えられている使命を果すため、一生懸命毎日やっているが、主が「もうそれで十分だから、こちらに来て、休みなさい」と仰せられ、天国へ招いてくだされば、喜んで主のみもとに行くまでである。いつ死んでも、天国へ行くことが確かであるので、今の時を力一杯生き、使命を果すことができるのである。<br /><br />死んだらだれでも天国へ行けるのではない。罪を持ったまま天国へ行くことはできない。<br /><blockquote>「罪や欲望を持ったままでは決して入ることのできない天国への狭い門を通って入りなさい。」(マタイ7:13)</blockquote>唯人http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-78128771844953794932008-06-22T21:10:00.006+09:002008-06-22T21:35:19.098+09:00人間をどう見るかが鍵<a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://bp2.blogger.com/_U-0nWGwLEdY/SF5GZ2Mnt0I/AAAAAAAAANQ/IaPxZmtUBuA/s1600-h/080514_103328.JPG"><img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://bp2.blogger.com/_U-0nWGwLEdY/SF5GZ2Mnt0I/AAAAAAAAANQ/IaPxZmtUBuA/s200/080514_103328.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5214682828400736066" /></a>以前、ノルウェーの神学者オットー・ハレスビーが、「なぜ私はクリスチャンになったのか」という本の中に彼が記している言葉を引用したことがあった。「私は本当の人間になるためにクリスチャンになりました。」こういう言葉を聞くと、カチンとくる人がいるかもしれないが、実はここのところが、本当に分らないと、クリスチャンにはなれないのである。<br /><br />どんな宗教でも、一応まともな宗教なら、善いことをするようにと教えるはずだ。オウム真理教のように、無差別に人を殺すことを教えるようなものは、もはや宗教という名にも値しないと言ってよいだろう。宗教というものは、実存的な問題(苦しみ、エゴイズム、死などほかの人に代ってもらうことのできない問題)を扱うものである。損をするとか得をするなどというようなことは、宗教が取り扱う事柄ではない。しかし、とにかく、まともな宗教なら、どれも皆、善いことを行なうようにと教えられるはずだ。<br /><br />ところで、そのように教えるということは、そのように教えてさえおけば、人間はだれでもそれを行なうことができるはずだという人間観がそこにあるからである。しかしながら、はたして人間は善いことを知ったから、それを自分の力で行なうことができる者なのであろうか。そのことを無視して、問題の解決ははたしてあるのだろうか。<br /><br />近代における文学を見れば分るように、ごく普通の人がごく普通に行動していって、最後は破滅になってしまうということから分るように、人間は善を知っていても、それを行なうことができない者なのである。それをエゴイストと呼んでもよいだろう。エゴイズムを持っていない人などいないのだから、そこに問題があるのだ。ほかの人を愛さなければならないということは分っているのに、最終的には、ほかの人の幸福よりも自分の幸福を選んでしまう。なんと醜い自分であることか。<br /><br />聖書では、この醜く、自分さえよければ他の人などどうでもよいと考える人間を罪人(つみびと)と呼んでいる。つまり、善いことを教えられていても、それを行うことができない人間のことである。次のように言われている通りである。<br /><blockquote>「良心の願いに従いたいという思いは、私のうちにあるのだが、それを実行することができない。私は良心の願いに従うことができず、それと反対のことばかりをしてしまう。・・・私は何という哀れな存在なのだろう。分裂してしまっていて、自分の力では決して善いことができなくなってしまった。死んだようなこの私を、一体だれが救い出してくれるだろうか。」(ローマ7:18-19、24)</blockquote><br />このような人間のことを、聖書では罪人(つみびと)と呼んでいる。だから、いわゆるこの世の法律に違反した犯罪人のことではない。それなのに、なぜ罪人(つみびと)と言うのかと言うと、自分の力では自分の今の姿を改善することができなくなってしまった道徳的破産者だからである。それは、神の定められた律法違反者なのである。人の作った法律に違反すれば犯罪人であるのだが、神が定めておられた律法に違反すれば、罪人(つみびと)となる。いずれも共通していることは、違反者であるということである。<br /><br />人の作った法律の場合でも、それに違反すれば必ず罰せられる。それから救われる道は償いがなされるということである。それは神の律法違反の場合も同じである。償いがなされない限り、罰せられるのは当然である。ところで、神の律法違反の場合、それに下される刑罰は死なのである。そして、それを償うために払われる値もまた死にほかならない。<br /><blockquote>「罪が支払うべき値は死、つまり神の呪いである。」(ローマ6:23)</blockquote><br />本人が償いをしようとしても、死んでしまえば、救いはそこにない。<br /><br />そこで、救われる道としては、だれか第三者の人が身代りに死をもって償う以外にはないことになる。ところで、すべての人は一人の例外もなく罪人だから、自分自身の刑罰としての死を受ける以外にはない。だからと言って、アダムにあって一体の人類以外の者が身代りになることは意味がないわけだから、ここに私たちを罪から救うことのできる人というのは、アダムの子孫として生まれて来た人であり、同時に罪のない人以外にはないことになる。その二つの相矛盾する条件を満たす救い主こそ、神が人となってこの世に来られた神の御子イエス・キリスト以外にはない。<br /><br />永遠の神の御子は、私たちを罪から救うために、処女マリヤの胎内に罪のない人間として宿られた。なぜ救い主は成人した形でこの世に現われなかったのかと言うと、私たちは母の胎内に宿るところから罪人として存在するので、救い主はそこから罪のないお方としてこの世に存在される必要があったのである。<br /><blockquote>「神は、罪を知らないお方キリストを、私たちの罪の身代りに十字架上で罰せられた。それは、私たちがキリストを信じることによって救われるためである。」(2コリント5:21)</blockquote>唯人http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-21199514804050845502008-06-17T23:33:00.009+09:002008-06-18T00:09:50.720+09:00祈りについて4<a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://www.yogunsha.com/publication.html#hontounoinori"><img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;width: 140px;" src="http://www.yogunsha.com/publication_img/books/hontounoinori.jpg" border="0" alt="" /></a>祈りが神との会話であるなら、神とお会いしないまま祈り始めても、それは本当の祈りとは言えないだろう。神の臨在を覚えるまで待つことだ。この体験をするところから、実は祈りが始まるわけで、これを体得しなければ、祈りを体得することはできない。<br /><br />神の臨在を覚えるために、私は賛美することを奨める。この賛美は、信仰の体験を歌った賛美よりも、神を直接あがめる賛美(プレイズとかワーシップと呼ばれるもの)がよい。それを心から賛美することだ。一回だけでなく、その賛美の歌詞が自分のものとなるまで何回でも繰り返し歌うことだ。<br /><br />心から賛美していると、雑念は去り、悪魔もそこにいたたまれなくなり、賛美のうちに住まわれる主がご自身を現してくださるのだ。その時、その主に話し掛けるのである。<br /><blockquote>「私の魂は、ただ神を待ち望む。」(詩編62:1)</blockquote><br />神を待ち望むところから祈りは始まる。<br /><br />祈りの勇者は、祈り始めると、すぐ神との交わりの中に入ることができる。しかし、信仰生活の初歩にある人は、なかなか神との交わりの中に入ることができない。時間がかかる。そういう人は、少し時間を取って、徹夜するくらいの意気込みで始めることが必要だ。祈りは口先だけで何かを言うことではない。神との交わりである。だから、神の臨在を覚えるまで待ち望むことが必要だ。そして訓練していくことによって、短時間で主との交わりに入ることができるようになる。そうなるまでに多くの時間を使わなければならないことになる。しかし、たとい祈りに入るまでに多くの時間を使ったとしても、本当の祈りが持てれば、それは本当にすばらしいことである。<br /><br />「静けき祈りの時はいと楽し」という賛美歌があるが、これは元々"Sweet hour of prayer..."という歌で、直訳すれば、「祈りのすばらしい時よ」ということになる。この賛美歌の作者は、祈りのすばらしい時、それは神との本当の交わりの時だと歌っているのである。これを一度でも経験したら、そのとりこになってしまい、これから離れることができなくなってしまう。残念ながら、多くのクリスチャンはこれを知らない。だから、信仰生活が無力なのだ。喜びがなく、力がない。信仰生活の力と喜びの源泉は神にあるからだ。簡単に信仰をやめたり、教会から離れたりするのは、このすばらしい祈りの時を味わったことがないからだ。このすばらしい味を一度でも味わったら、信仰がバックスライドしたり、冷たい愛のない態度を取るはずがない。さらに詳しく知りたい方は、拙著<a href="http://www.yogunsha.com/publication.html#hontounoinori">「新版・ほんとうの祈り」(羊群社)</a>を参照されたい。唯人http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-5496270473311174582008-06-14T22:37:00.004+09:002008-06-14T22:46:09.192+09:00罪の現実10 - キリストの救い主性<a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://bp2.blogger.com/_U-0nWGwLEdY/SFPLPK4VPFI/AAAAAAAAANI/8h_eaXLDTxg/s1600-h/DSC07032.jpg"><img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://bp2.blogger.com/_U-0nWGwLEdY/SFPLPK4VPFI/AAAAAAAAANI/8h_eaXLDTxg/s200/DSC07032.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5211732655276899410" /></a>私たちは、皆生れながらにして罪人である。このことは、近代における文学が追求している人間の破局性や、その破局性は教育などによっては決して改善されうるものではないということを見てきた。私たち人類は一人残らず罪人なのである。だから、毎日のように人殺しが行われているし、社会のどこにおいても問題だらけなのである。<br /><br />前回述べた通り、私たちの罪を身代りに償ってくれる人がいるとしたら、その人自身罪を持っていない人でなければならない。そうでなければ、自分の罪の償いとして死ななければならないからである。自分の罪のために死んでしまうのであれば、ほかの人の罪の償いなどできないではないか。<br /><br />すべての人類はアダムの子孫として罪人なのだから、アダムの子孫として生れてきた人は、だれ一人として罪を持っていない人などいないのである。それでは、一体だれが私たちの罪を身代りに背負って、その罪の償いをすることができるだろうか。<br /><br />火星人か。そんな人なら、アダムの子孫として一体である人類とは何の関係もないから、何の役にも立たないことは明らかだ。それならば、最初に人間が造られたた時、罪のない人間として造られたのと同じように、罪のない人間を土からもう一度造ればよいのであろうか。それも、アダムにあって一体の人類とは何の関係もない。<br /><br />そこで、神は御子イエス・キリストを人間の姿を取って、この世に誕生させられたのである。御子イエス・キリストがなぜ処女降誕されたのかという理由がそこにある。処女だから罪がないというのではない。人間マリヤの胎内に、神が特別に働かれて、罪のない神の御子を宿らせられたのである(ルカ1:35)。<br /><br />多くの人は、処女降誕を信じがたいと言うが、処女降誕でない救い主こそ信じることができないと言いたい。アダムの子孫として生れながら、罪のないお方であるには、この処女降誕以外のいかなる方法があったろうか。だから、イエス・キリストこそ、私たちの罪を償う唯一の有資格者であるということができよう。<br /><br />イエス・キリストの十字架上の死こそは、私たちが払わなければならなかった罪の刑罰を身代りに支払ってくださったものなのである(2コリント5:21)。だから、ここにこそ本当の救いがある。人間が罪人であるなら、ここにしか救いはない。唯人http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-29428707045662837202008-06-10T22:04:00.004+09:002008-06-10T22:25:17.773+09:00祈りについて3<a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://bp2.blogger.com/_U-0nWGwLEdY/SE6Ace090XI/AAAAAAAAANA/C2MdYJG8mu0/s1600-h/DSC07076.jpg"><img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://bp2.blogger.com/_U-0nWGwLEdY/SE6Ace090XI/AAAAAAAAANA/C2MdYJG8mu0/s200/DSC07076.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5210243045714153842" /></a>祈りにおいて大切なことは、本当に神との会話になっているのかということではないかと思う。神との会話になっていない祈りであれば、それは独り言にすぎないことになってしまう。つまり、から回りの祈りなのである。それでは、いくら祈っても何の手応えもなく、自分自身何も変ることはない。それは、むなしい祈りであって、時間の浪費でもある。信仰生活において力をまだ一度も体験していないとしたら、おそらく祈りが問題なのだろうと思う。<br /><br />そういう人の祈りは、いつしか形式的なものになり、信仰生活も形骸化していって、何かあった時、何の力もない無力な生活であるだろう。それは、本当の信仰生活ではない。何か大変なことが起っても、信仰によってそれを乗り越えることができず、形の上だけの信仰生活を送っているにすぎない。そういう人は、神が生きて私たちの生活に働いてくださるのだということを知らないから、何かがあっても、神によって解決していただこうという心が起きないだろう。<br /><br />たとえば、自分の子供が交通事故に遭った時、まず祈って神の助けを頂こうとするのではなく、すぐ119番に電話をして救急車を求めたり、人の助けを得ようと奔走するかもしれない。もちろん、一刻一秒を争う時、119番にすぐ電話を掛けるのがいけないわけではない。しかしその時でも、神の助けを求めて祈りつつ電話をするのと、神のことよりも救急車の助けを第一に考えてしまう、日ごろの信仰生活がそこで問われるのである。<br /><br />祈りを分類すると、次のようになる。賛美、感謝、告白、とりなし、願い、御声を聞くこと。ところで、これらの祈りが、それぞれ本当の賛美、感謝、告白、とりなし、願い、御声を聞くことになっているためには、大事な一つの前提条件がなければならない。それは、神の御前に出て、神とお会いしているということだ。そこで、私は祈りにおいて最も大切なものは、神とお会いするために、神を待ち望むことだと申し上げたい。<br /><br />神とお会いしないうちに祈り始める人は、独り言の祈りだが、独り言の賛美や、独り言の感謝や、独り言の告白がいかに多いことか。神がそこにおられないのに、神への賛美をささげている。多くの人が礼拝でささげる賛美もこれではないだろうか。曲だけを気持よさそうに歌っている人、賛美の歌詞の字づらをただ追っている人などは、まさしくこれに属するのではないだろうか。唯人http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-18555098566480761602008-06-07T21:44:00.005+09:002008-06-08T00:21:10.509+09:00罪の現実9 - 罪の性格<a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://bp3.blogger.com/_U-0nWGwLEdY/SEqPY8Cs8mI/AAAAAAAAAM4/6zK2U9v2Jgs/s1600-h/20080603340.jpg"><img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://bp3.blogger.com/_U-0nWGwLEdY/SEqPY8Cs8mI/AAAAAAAAAM4/6zK2U9v2Jgs/s200/20080603340.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5209133577604493922" /></a>近代における文学が追求している人間性というものはなぜ破局性を持っているのかと言うと、それはエゴイズムの問題なのだと言った(<a href="http://tadabito.blogspot.com/2008/05/7-3.html">文学が示している人間の破局性(3)</a>)。またその人間の破局性は、決して教育などによって変えられるものではないとも言った(<a href="http://tadabito.blogspot.com/2008/05/8.html">教育によって改善できるか</a>)。人間は生れながらにして、この破局性を身に帯びている。これを、聖書では罪と言い、人間が罪人であるとは、そのことを言うのである。<br /><br />しかし、罪人と言うと、多くの人はこれに抵抗を感じる。とういうのは、罪人という言い方は、犯罪人を連想するからだと思う。しかしながら、罪人と犯罪人とは全然違う。犯罪人というのは、法律を犯す人だから、法律によって罰せられ、時と場合によっては刑務所に行き、前科者と呼ばれなければならない。それに反し、罪人はごく普通の人である。けれども、よく考えてみれば分るように、私たちの心の中には、善からぬ考えがある。主イエスは、憎しみが人殺しの罪を起し、貪りが盗みや姦淫の罪を起すと教えておられるように、私たちの心の中には、人殺し、盗み、姦淫の予備罪とでも言うべきものがある。そういう事態に陥らなかったがために、犯罪人にならなかったにすぎないのではないか。<br /><br />だから、罪人と犯罪人とは決して同じではないけれども、全然別だとも言いきれない。法律では、こう言う考え方をするものである。罪というものは、罪を犯した人がその償いを完了するまでは、その人に対して力を持って迫ってくる。そういうわけで、だれかに対してひどいことを言ったり、してしまったような場合、どうしてもそれが心に刺さっていて眠れないことがあるだろう。その相手の赦しを得るまで、心に平安はないのである。<br /><br />ところで、聖書が教えているところでは、罪が支払わなければならない値は死であるというのだから(ローマ6:23)、これでは、私たちの助かる見込みはない。だから、本人ではなくだれか第三者の人が私の身代りに死という償いの値を支払ってくれなければ、私たちの助かる見込みはゼロということになってしまう。<br /><br />そんな人がいるだろうか。しかしいたのである。それこそイエス・キリストにほかならない。「しかし、私たちは正しい人間でも、だれかに恩顧を与えているような人間でもなく、罪人にすぎないのに、この罪人のために、キリストは死んでくださった。このことによって、神は私たちに対する愛をいかんなく現されたである。」(ローマ5:8 現代訳)。唯人http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-2981122941527670072008-06-04T02:07:00.005+09:002008-06-04T02:18:04.584+09:00祈りについて2<a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://www.yogunsha.com/publication.html#hontounoinori"><img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;width: 140px;" src="http://www.yogunsha.com/publication_img/books/hontounoinori.jpg" border="0" alt="" /></a>祈りというものは、私たちの霊の深いところからの自然の発言なのだが、本当の祈りというものは、だれにでも自然に出来るものなのか、それとも、ある特別にすぐれた人とか、ある特別な賜物を与えられている人でなければ出来ないものなのだろうか。聖書はこう教えている。<br /><blockquote>「彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ話している時に、わたしは聞く。」(イザヤ65:24)</blockquote><br />祈りは霊の呼吸であると言われる。これは私たちが普段している呼吸から祈りを考えるように促している。私たちに必要な空気は私たちの周りにあって、大気の圧力として私たちの肺の中に入ろうとしている。だから、私たちは呼吸器を開きさえすればよいのだ。むしろ、呼吸を止める時には努力を必要とする。そして、空気が肺の中へ入って来れば、私たちの体は新しい命に溢れるようになる。<br /><br />ちょうどそれと同じように、私たちの霊に必要な神は、私たちの問題をご存じであり、私たちを助けようとして、すぐそばにおられるのだ。だから、私たちが心を開きさえすればよいわけである。神は私たちを助けることを願っておられ、拒まなければ、どこにでも入って来られ、渇ききった心に潤いを与え、疲れた心に休みを与え、どんな必要も満たしてくださる。<br /><br />このように、祈りにおいては、私たちの熱心が神を動かすのでもなければ、私たちの力が神を通してほかの人を動かすのでもない。祈りにおいて大切なことは、私たち自身の無力さの自覚である。自分の問題に対して、自分ではどうすることもできないのだという自覚、つまり自分の弱さの自覚が必要なのである。強い者が祈りの力を行使できるのではない。自分の力のなさ、弱さを自覚している者でなければ、どうして神の助けを必要とするだろうか。そして、それがまた信仰者の根本的な姿勢でもあると言うことができる。<br /><blockquote>「健康な人には医者はいらないが、病人には医者がいります。・・・わたしは自分で正しいと考えている人を招こうと思って来たのではなく、罪人であることを自覚している人を招くために来たのです。」(マタイ9:12-13)</blockquote><br />助けを必要とする病人だけが医者の所に来るのと同様に、霊の助けを必要としている罪人だけが、霊の医者であられる神のみもとへ行くのである。そして神のもとへ行くこと、これが信仰にほかならない。このことについてさらに詳しく知りたい方は、拙著<a href="http://www.yogunsha.com/publication.html#hontounoinori">「ほんとうの祈り」(いのちのことば社)</a>を参照されたい。唯人http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-41286392246845968782008-05-31T23:51:00.003+09:002008-06-01T00:06:21.227+09:00罪の現実8 - 教育によって改善できるか<a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://bp2.blogger.com/_U-0nWGwLEdY/SEFpGq_98LI/AAAAAAAAAMw/7G61tLjoX1A/s1600-h/080427_101907.JPG"><img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://bp2.blogger.com/_U-0nWGwLEdY/SEFpGq_98LI/AAAAAAAAAMw/7G61tLjoX1A/s200/080427_101907.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5206558207559725234" /></a>人間をどう見るかということは、文学の分野だけでなく、法律の分野でも同じことが言える。法律において、人間をどう見るかということは、法哲学における人間観でも明らかである。<br /><br />法律は皆同じような見方をしていると思っている人がいたら、それは大間違いである。人間をどう見るかによって、刑法は全く変ってしまう。たとえば、今の日本の法哲学は、大体においてヒューマニズムの人間観をもって見ている。その証拠に、教育刑という考え方を持ち込んできている。つまり、刑務所において善いことを教えておけば、釈放された後、皆善人になれるという考え方である。<br /><br />しかし、はたして現実はどうであろうか。初犯刑はその大半が累犯刑に進んでいっている。これは、教育によっては、人間を改善することはできないということをあかししてはいないだろうか。<br /><br />もちろん、教育が有害無益であるなどと言っているのではない。教育の重要性については十分知らなければならないことである。しかし、教育には限界があることも知る必要がある。<br /><br />教育によって、人間の性格を変えることはできない。犯罪を犯した人の性格を変えて、犯罪を犯さないようにすることはできないのである。<br /><br />教育というものは、文化的遺産の継承を通し、人格と人格の触れ合いを通して、人格形成を行うことであって、それ以上の何ものでもなく、それ以下の何ものでもないわけであるから、人間の性格を変えるということは、教育の本来の目的ではない。ところが、今日の刑法における考え方としては、教育刑と称して、人間の性格は変えられると誤信して、多大な税金をこのことのために投入している。これは、税金の無駄遣いにほかならないのである。<br /><br />だから、教育によって人間を変えることができると考えるのは誤解である。人間の持っている問題は、教育などによって変えられるものではない。これは、教育などによって変えられるものではなく、心理学者のウイリアム・ジェームスが「回心の種々相」の中で述べているように、回心、つまり生れ変わるということ以外のいかなる方法によっても変えることはありえないのである。それが、聖書で言う「罪」の本質なのである。唯人http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-72071531751743149592008-05-28T01:24:00.003+09:002008-05-28T01:36:46.241+09:00祈りについて1<a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://bp1.blogger.com/_U-0nWGwLEdY/SDw4TrAlIjI/AAAAAAAAAMo/igvnfpozsVo/s1600-h/DSC07137.jpg"><img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://bp1.blogger.com/_U-0nWGwLEdY/SDw4TrAlIjI/AAAAAAAAAMo/igvnfpozsVo/s200/DSC07137.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5205097179947278898" /></a>クリスチャンにとって、祈りは特権であり、また神から力を頂く場でもある。<br /><br />私たち人間は、自分の思いをじっと胸の中に秘めておくことができない者だ。これを何らかの形でだれかに言わないではいられない。子供が母親に何でも話すのは、その良い例であると言うことができよう。だんだん大きくなると、恥ずかしいという気持や、親は本当に自分のことを理解してはくれないという思いが起って、親に話すよりも友達に話したり、日記に記したり、インターネットのブログで発表したりするようになるだろう。それでも不満足な場合には、一人で物思いにふけるようになり、それを一人言のようにして言うこともあるだろう。人が自分の思いを言い表さずにいられないのは、人格的存在として造られているからである。人格的存在は、いつもほかの人格的存在を必要とし、それと交わらないではいられないのだ。ところが、一人の人には一つの人格しかないから、人はだれでもほかの人を必要とするのだ。<br /><br />私たちの霊は、すべての思いを言い表すためには、どうしても完全な人格を求める。自分の悩み、悲しみ、苦しみ、また喜び、楽しみなど、すべてをありのままに注ぎ出して語るためには、その相手が偉大な存在でなければならないのである。このような存在に対する私たちの霊の思いの吐露、人格的交わりが祈りなのである。私たちは元々弱い者だから、偉大なお方である神に依存して生きる存在として造られている。<br /><br />だから、祈りは人間の最も深く、聖い心からの声であると言うことができる。どんな宗教でも、その最終的に行きつくところは祈りであると言われるが、それは、このような意味から理解することができるわけである。<br /><br />ところで、キリスト教の祈りというものも、そうした人間の側からの要求の表われ、また思いの行きついたところ、つまり極致にすぎないものなのだろうかと言うと、必ずしもそうではないのである。聖書の教える祈りというものは、私たちの霊が神の霊と交わることにほかならない。そうしないでは生きていくことができないように造られている私たちの霊が、造り主であり、天の父であるお方と交わる交わりなのである。だから、祈りとは、しなければならないものではなく、しないではいられないものにほかならない。そういうわけで、クリスチャンが祈らないと、霊的呼吸困難に陥ってしまうのである。唯人http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-75974934406417957802008-05-24T22:24:00.004+09:002008-05-24T22:45:39.389+09:00罪の現実7 ー 文学が示している人間の破局性(3)<a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://bp1.blogger.com/_U-0nWGwLEdY/SDgbprAlIiI/AAAAAAAAAMg/5UptvMzCoFM/s1600-h/DSC07080.jpg"><img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://bp1.blogger.com/_U-0nWGwLEdY/SDgbprAlIiI/AAAAAAAAAMg/5UptvMzCoFM/s200/DSC07080.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5203939772160352802" /></a>芥川龍之介が掘り下げて行ったエゴイズムの問題と取り組んでいった人として、私は太宰治を挙げることができるように思う。芥川がエゴイズムの問題と対決したのに対し、太宰はそれを「人間失格」という問題意識にまで深めたと言うことができるだろう。<br /><br />この作品の中で、主人公の大庭葉蔵はこう言う。「人間失格、もはや、自分は完全に、人間でなくなりました。」人間が人間でなくなること、それほど恐ろしいことはない。それは人間性の完全な喪失ということになる。<br /><br />「僕には人生の目的が何であるかわからない。友達とも、人生の目的は何かということで議論したが、皆の出し合った意見の中で、心から納得できるものは一つもなかった。自分は現在何のために勉強しているのかさっぱり分らない。」<br /><br />「人生て何だろう。人生には果して目的があるのだろうか。人生には目的なんてあるのではなく、ただ生れてきたから、生きているだけのことではないのか。死ぬまで生きている、ただそれだけのことではないのか。もしもそうだったら、何もこんなに苦しみながら死を待つ必要はない。さっそく三原山かクリスマス島へでも行った方がよい。」<br /><br />この作品の中で、罪のアトニム(反対語)ごっこという遊びをするのだが、その会話の中で、罪の反対語がついに見付からなかったことだ。罪の反対語として法律を持ち出したり、善を持ち出したり、神を持ち出したり、救いを持ち出したり、愛を持ち出したり、光を持ち出して来て、結局分らないのだ。罪の実体が分らなかったというのが、太宰治の本当のところだったように思われる。<br /><br />太宰治や坂口安吾や織田作之助という一連の作家の文学のことを、可能性の文学と呼ぶ。それは、彼らの作風が、一様に落ちる所まで落ちて、そこからどこまで上がって来ることができるかに、人間の実力の可能性があるということを問題にしているため、このような呼び方がされる。<br /><br />ところが、この可能性の文学と称せられる一連の文学者は、どういう足どりをたどったろうか。太宰治はついに心中をしてしまうし、坂口安吾は、催眠薬中毒のため東大の神経科に入院してしまうという具合で、最後は皆破滅で終っている。このことは、人間のうち側にあるものの破局性を示しているとは言えないだろうか。唯人http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-75687959925407929822008-05-20T22:12:00.005+09:002008-05-20T22:20:48.811+09:00聖書について4<a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://www.yogunsha.com/publication.html#Gendaiyaku"><img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;width: 140px;" src="http://www.yogunsha.com/publication_img/books/seisho.jpg" border="0" alt="" /></a>私は、翻訳原則を変えて、もう一度翻訳を始めた。いくつかの書は、すでに古い翻訳原則によるものではあったが、翻訳を終っていた。だから、比較的容易に新しい原則に変えて、手直しすれば、それで済んだ。<br /><br />私は元来、短距離型の人間で、長距離はにが手であった。しかし、新約聖書の場合、使徒の働きまで訳し終った時、分量から言うと、全新約聖書の半分以上は訳したことになるのである。思わずこれはいけると思った。というのは、ローマ人への手紙、コリント人への手紙1、2、ガラテヤ人への手紙、エペソ人への手紙、コロサイ人への手紙、テサロ二ケ人への手紙、テモテへの手紙1、2、テトスへの手紙は、古い翻訳原則によってではあったが、翻訳が出来ていたからである。こうして、1978年に、新約聖書の翻訳は終った。<br /><br />これを出すと、大きな反響が起った。ある人は、こんなことを言ってきた。「私はもう年寄です。私の目の黒いうちに、ぜひとも旧約聖書を出していただきたいと思います。」旧約聖書は、分量からすれば、新約聖書の三倍もある。その人の要望にはぜひとも応えてあげたいが、とても出来るものではないと思った。創世記、出エジプト記、ヨシュア記などは、すでに古い翻訳原則で訳してあったので、遅々としてではあったが、まあまあの速さで進められていった。毎日出来るだけ時間を取るようにして、翻訳を進めていった。<br /><br />1983年の1月に、それまで日本プロテスタント聖書信仰同盟の実行委員長をしていたのを辞めることになった時、急に時間が取れるようになり、急ピッチで翻訳を進めることができ、その年の3月に翻訳は全部完成してしまった。そうなると、どうしてもその年のうちに出したいと思うようになった。しかし、こんなに分厚いものを突然印刷屋に持って行っても、引き受けてくれる所はなかなか見つからなかった。けれども、引き受けてくれる所が現われ、その年の秋に旧新約聖書を一巻本として出すことができた喜びは何にも代えがたいものであった。<br /><br />私が翻訳に手を付けてから三十年余り経つ。私は改訂したい箇所があると、すぐ赤で訂正し、付箋を付けておく。こうして、改訂すること九回、今日第十版を出している。かなりの箇所が改訂されているので、十版を見ると、以前の版よりはるかに分りやすくなっていると思う。この<a href="http://www.yogunsha.com/publication.html#Gendaiyaku">「現代訳聖書」</a>は、日本人のための私のライフワークでもある。唯人http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-46987827913589350062008-05-18T07:09:00.007+09:002008-05-20T22:11:20.835+09:00罪の現実6 - 文学が示している人間の破局性(2)<a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://bp0.blogger.com/_U-0nWGwLEdY/SC9X4634o7I/AAAAAAAAAMY/NBlMQss-wUQ/s1600-h/DSC07100.jpg"><img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://bp0.blogger.com/_U-0nWGwLEdY/SC9X4634o7I/AAAAAAAAAMY/NBlMQss-wUQ/s200/DSC07100.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5201472730024158130" /></a>夏目漱石の「こころ」という作品が、画期的な意味を持つものであるとするならば、その後、そうした人間、あるいは自我というものをそのまま延ばしていった時、どういうふうになるかということを追求していった作家として、私は芥川龍之介を挙げることできると思う。<br /><br />芥川の最後の作品であり、文字通り遺稿となった「西方の人」「続西方の人」は、言うまでもなく彼のキリスト論であると言うことができる。彼の生涯を見てみると、ある時期にはキリスト教に傾き、ある時期には仏教に傾き、大きく揺れ動いている。彼にとっては、キリスト教が関心の対象になっていたのではなく、聖書を通して伝達されるキリストが問題であったのである。彼はこう記している。「わたしはやっとこの頃になって四人の伝記作者のわたしたちに伝へたクリストと云う人を愛した。クリストは今日の私には行路のやうに見ることは出来ない」(「西方の人」)という芥川のキリストに対する愛がどのようなものであったかは、もちろん、単純に受け取ることはできないとしても、彼の意識が、キリスト教という宗教に向けられていたのではなく、イエス・キリストに向けられていたことだけは疑うことができないだろう。<br /><br />「西方の人」のキリスト論は、正統的な信仰告白の立場から見ると、それは言語道断というほかないかもしれないが、しかし、芥川が近代日本文学の運動を、ほとんどその絶望にまで突き詰めたところで、主イエス・キリストというお方の前に出たということは極めて重要なことである。しかし、芥川の「西方の人」には、キリストとお会いするという信仰的モチーフが欠如している。<br /><br />芥川が書いた「西方の人」「続西方の人」というのはイエスのことである。しかし、彼は1927年7月24日の朝、薬を飲んで自殺してしまった。夏目漱石の場合、作中の人物の死を持って終らせることができたものの、芥川の場合、自ら死んでいる。しかも、その枕もとにはたった一冊の聖書が置かれてあった。<br /><br />芥川は、「わたしは四福音書の中にまざまざとわたしに呼びかけているクリストの姿を感じている」とはっきり書いている。それなのに芥川の場合の問題は、彼が書いた「西方の人」の中のイエスに対する見方にひそんでいる。芥川にとって、イエスは宗教的天才、天才的ジャーナリストでしかないのである。唯人http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-87757084166245047682008-05-14T02:18:00.004+09:002008-05-14T02:33:37.660+09:00聖書について3<a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://bp3.blogger.com/_U-0nWGwLEdY/SCnQdK34o6I/AAAAAAAAAMQ/28lnqRtbYKI/s1600-h/DSC07073.jpg"><img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://bp3.blogger.com/_U-0nWGwLEdY/SCnQdK34o6I/AAAAAAAAAMQ/28lnqRtbYKI/s200/DSC07073.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5199916444329485218" /></a>私が奇しくも聖書翻訳に携わるようになった経緯はこうである。第二次世界大戦直後の日本では、自力で聖書を印刷し、製本することはできなかった。いきおいアメリカ聖書協会が作って、送ってきてくれたのである。その聖書は、もちろん戦前に作られた文語訳聖書の写真版なのだが、残念なことに、戦後の教育を受けた者には読むことが難しかった。というのは、戦後の教育では、文章を書く場合、助詞を除き、表記法は発音通りにすることになった。つまり、「幸い」は、「さいわい」である。ところが、戦前の日本語表記法はこれとは異なり、この文語訳聖書では「さいはひ」と書いてある。「憐み」も「あはれみ」であり、「あわれみ」ではない。「効力」も「かうりょく」であって、「こうりょく」ではない。<br /><br />これではだめだと思ったので、早速、私訳をし始めた。もちろん、口語訳である。そうしているうちに、日本聖書協会より「口語訳」が出された(1956年)。これは、かなりひどい訳ではあったが、当時使える聖書としてはこれしかなかったので、使わざるをえなかった。これがひどい訳であるということは、聖書の原文を勝手に変えて訳したり、キリストの権威をあえて認めようとしなかったりしていた。そこで、日本プロテスタント聖書信仰同盟では、日本聖書協会に質問状を提出したにもかかわらず、一向に返答はなかった。<br /><br />そうこうしているうちに、聖書を誤りのない神の言葉と信じる人々の中から新しい聖書翻訳の気運が高まり、アメリカのロックマン・ファウンデーションの協力を得て、「新改訳聖書」を出すことができた(1970年)。私もその時、翻訳者の一人として加わった。<br /><br />その後、日本聖書協会では、カトリックと「共同訳聖書」を作るということに先立ち、アメリカ聖書協会翻訳主任のユージン・ナイダ博士を招いて、「ダイナミック・エクイバレンス」なる翻訳理論の説明会を開き、私もそれを聞いたのだが、従来の翻訳原則が頭にこびりついているため、全く受け入れられなかった。<br /><br />その後、リビング・バイブルの序文にケネス・テイラー博士が、このような意味のことを書いておられた。「新約聖書で旧約聖書から引用する時、原文とはかなり違った引用の仕方をしている。このようなことが許されるなら、このリビング・バイブルもありうるはずだ。」この時、私は「ダイナミック・エクイバレンス」の翻訳理論が分ったのである。しかし、リビング・バイブルは厳密には翻訳ではないが、私は新しい翻訳原則で原文から翻訳しようと思った。唯人http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-35947034609364833102008-05-11T01:10:00.004+09:002008-05-11T01:18:55.385+09:00罪の現実5 - 文学が示している人間の破局性(1)<a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://bp0.blogger.com/_U-0nWGwLEdY/SCXKcO2NueI/AAAAAAAAAMI/egd1HQ5tcIE/s1600-h/DSC07155.jpg"><img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://bp0.blogger.com/_U-0nWGwLEdY/SCXKcO2NueI/AAAAAAAAAMI/egd1HQ5tcIE/s200/DSC07155.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5198783931239741922" /></a>中世に文学は、神の御前に人間を設定して、その人間がどういう動きをするのかを描いている。しかし近代の文学になると、神を信じる人は必ずしも多くはないので、神との関係において人間を考えるのではなく、人間のうちにあるものをそのまま延ばしていくとどういうことになるのかということをテーマにしている。<br /><br />ことに日本の近代文学で、その意味から特異な存在として、画期的な位置を占めるのは夏目漱石であると思う。彼の「こころ」という作品があるが、その主人公である「先生」が「私」に語りかける印象深いところがある。<br /><blockquote>「あなたは未だ覚えているでしょう。私がいつか貴方に、造り付けの悪人が世の中にいるものではないと云ったことを。多くの善人がいざという場合に突然悪人になるのだから油断しては不可ないと云った事を。あの時貴方は私に昂奮していると注意して呉れました。そうして何んな場合に、善人が悪人に変化するのか尋ねました。私がただ一言金と答えた時、あなたは不満な顔をしました。私はあなたの不満な顔を記憶しています。私は今あなたの前に打ち明けるが、私はあの時伯父の事を考えてゐたのです。」 </blockquote><br />これは、先生という主人公が伯父さん一家にうまくだまされて、伯父さんがその娘と自分を結婚させることにより、自分が父親から受け継ぐはずの財産を取ろうとしていることを知るのである。「アカの他人は信用できない。しかし伯父さんだけは信用できると思っていた」その気持ちが、伯父さんにそむかれて、彼はショックを受けるのだ。<br /><br />彼は東京の下宿の隣部屋に親友Kを住まわせるのだが、そのKと下宿の娘さんが親しくするのに、心の中で何か穏やかならぬものを感じ始めるようになる。それからしばらくすると、Kからその娘さんに対する愛の告白を聞かされる。彼の心はますます平穏さを失っていく。そして下宿の小母さんに「お嬢さんを下さい」と言うのだが、小母さんからは、「あなたのお友だちにはあなたの方からよく話して下さいよ」と言われるのだが、到底話せない。ある日、お茶飲み話の時か何かに小母さんが、Kにその話をしてしまう。そしてKは思い詰めて、自分の部屋で自殺をしてしまうのだ。<br /><br />アカの他人も、伯父さんも信用できないところから、今度は自分さえも信頼することができなくなっていくのである。唯人http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-60915807224104403782008-05-07T12:40:00.003+09:002008-05-07T12:52:27.033+09:00聖書について2<a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://www.yogunsha.com/publication.html#Gendaiyaku"><img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;width: 140px;" src="http://www.yogunsha.com/publication_img/books/seisho.jpg" border="0" alt="" /></a>聖書は良い本だけれども分りにくいと言われる。毎年わが国では数百万冊の聖書(分冊をも含めて)が人々の手に渡っているというのに、その約九割は読まれていないというのだ。どこにその原因があるのだろうか。それは、読んでも分らないのだと言われているのである。<br /><br />それでは、どうして読んでも分らないのかと言うと、どうやら翻訳に問題があるらしい。もちろん聖書が本当に分るためには、信仰を持って読まなければならないわけだが、実はそこまで行かないところで、さっぱり分らないのだ。それは、聖書が書かれた時代の風俗や習慣が、今日私たちが生きているわが国のものと全く違っているのに、そのような歴史的、社会的、文化的な違いをほとんど考慮に入れずに訳しているところにあるのだ。<br /><br />従来使われていた聖書翻訳の原則は、「原語に忠実」、一点張りだった。「原語に忠実」で何が悪いのかと思う。しかし、原語に忠実だけではだめなのである。むしろ、歴史、社会、文化の違いを考慮に入れた、「原文の意味に忠実」ということが重要なのだ。これは、アメリカ聖書協会の翻訳主任であった言語学者ユージン・ナイダ博士によって提唱された「ダイナミック・エクイバレンス」という翻訳理論である。そしてこれは、キリスト教界においてだけでなく、一般に使われている翻訳理論でもある。キリスト教界では、現にウイックリフ聖書翻訳協会の宣教師がこの翻訳理論を使って、世界各地で聖書を翻訳している。<br /><br />聖書というものは、元来、それを読むだけで分るものであったはずだ。読むだけでは分らず、その説明文が必要であったとしたら、それをも加えたものを、神は私たちにお与えになったはずである。しかし、神が私たちの救いについての御心を示してくださったのは、あの六十六巻の聖書だけなのだ。だから、当然のこと、聖書はそれ自体、神の御心を明瞭に示していたと言うことができる。<br /><br />それなのに、今日私たちが聖書を読んでも、読むだけではよく分らないのは、翻訳に問題があることに気付いたのである。「原語に忠実」という翻訳原則を変え、「原文の意味に忠実」という翻訳原則に変えて訳した。とにかく読むだけで分る聖書として、三十年余りの歳月を費やして訳した。それが<a href="http://www.yogunsha.com/publication.html#Gendaiyaku">「聖書」(現代訳、現代訳聖書刊行会)</a>である。この翻訳原則に従って訳された聖書に、欧米ではもう何種類も出ていると言うのに、わが国では、この通称<a href="http://www.yogunsha.com/publication.html#Gendaiyaku">「現代訳聖書」</a>一種類のみであることは寂しい限りである。唯人http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-71315551900923181362008-05-03T22:18:00.003+09:002008-05-03T22:26:24.075+09:00罪の現実4 - 欲望に彩られている人生<a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://bp3.blogger.com/_U-0nWGwLEdY/SBxnyYvASjI/AAAAAAAAAMA/nop24mZlzZw/s1600-h/DSC06978.jpg"><img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://bp3.blogger.com/_U-0nWGwLEdY/SBxnyYvASjI/AAAAAAAAAMA/nop24mZlzZw/s200/DSC06978.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5196142185409432114" /></a>ほとんどの人は何らかの欲望を持って生きている。人間が持っている欲望は、食欲、睡眠欲、性欲といった、いわば動物的な欲望と、ただ一つ人間にだけある、認められたいといった重要感の満足につながる欲望がある。<br /><br />しかし、こうしたものだけで、はたして人間が生きる喜びを味わうことができるだろうか。今日、あたかもほとんどの人がそこにしか関心がなくなってしまったかのように、どの小説も性風俗の克明な描写にうつつを抜かしているが、そのようなことで、はたして私たちは本当に満足できるのだろうか。確かに、私たちの欲望はそれによって満たされるが、その時、私たちは嫌というほど魂の飢え渇きを覚えないではいられない。<br /><br />人間として生きることに喜びを見出すためには、自分が今生きていることに満足できなければならない。「生きがいの欲求」について、最も深く追究したアメリカの心理学者キャントリルは次のように言っている。<br /><blockquote>「あなたの行為が他のだれかにとって、いかに『成功』であるように見えても、もしあなた自身が経験の『高揚』を感じなければ、それはあなたにとって成功ではない。それゆえ、時折われわれから見ると成功したように見える人が自殺をし、世間が『偉大』であると考えている芸術家なり作曲家なり政治家なりが、人生はむなしいと言ってわれわれを驚かせるのである。」</blockquote><br />それでは、自分が今ここにこうして生きているということに、私たちはどうしたら満足できるだろうか。普通私たちは、いつも何かによって、満足がおびやかされている。不安、恐れ、悲しみ、恨み、ねたみといったものがそれだ。だから、それらを取り除いておく必要がある。しかしその原因は一様ではないので、いくら原因になりそうなことが起こっても、不安、恐れ、悲しみ、恨み、ねたみを抱かないでもすむ心の持ち方の方が大切であると言うことができよう。<br /><br />また、生きていることに満足を与えるということは、生命の流れをスムースにすることなのだから、それを助けるものとしては喜びを挙げることができるだろう。つまり、いつも心に喜びを抱き、不安、恐れ、悲しみ、恨み、ねたみを抱かないでもすむ心の態度が一番基本的なことである。この欲求不満の処理がうまくいかなかったがために、ノイローゼになる人は決して少なくないのである。唯人http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-77634994864887067682008-04-30T08:22:00.004+09:002008-04-30T08:32:18.116+09:00聖書について1<a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://www.yogunsha.com/publication.html#seishonokenni"><img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;width: 140px;" src="http://www.yogunsha.com/publication_img/books/seishonokenni.jpg" border="0" alt="" /></a>クリスチャンと称する人々の中にも、聖書についての考え方は必ずしも一様ではない。聖書を誤りのない神の言葉と信じる人もいれば、聖書は約40人の人によって書かれたもので、書いた人のそれぞれの信仰がそこに表わされているから、相互に矛盾があってもやむをえないと考えている人もいる。後者の人々にとって、聖書は参考意見以上の何ものでもないから、信仰生活において何を基準にしていったらよいのかということになると、回答はまちまちである。それぞれの神学者の言うことを拠り所とするほかないだろう。<br /><br />それに反し、聖書を誤りのない神の言葉と信じる人々は、聖書に信仰と生活の基準を見出し、それに従って生きていくことになる。私はこの立場に立つ。この二つの立場のうち、なぜ私がこの立場に立つのかと言うと、それが主イエス・キリストの立場であり、主イエスの聖書観だからである。主イエス・キリストはこのように言っておられる。<br /><blockquote>「わたしは、律法や預言者と呼ばれる旧約聖書の教えを不要なものとするために来たのだとは思わないでください。むしろ、わたしは旧約聖書を行うために来たのです。確かに、旧約聖書のすべては、たとい天地が滅んだとしても、必ず実現されます。それほど確かなものです。」(マタイ5:17-18)</blockquote><br />それだけではなく、新約聖書の記者たちは旧約聖書を引用している時、「神がこう言っておられる」という意味で使っている。必ずしも神が語っているところでない箇所を引用している場合も、「神は・・・仰せられた」(ヘブル1:5-13)と述べている。つまり、主イエス・キリストと共に、聖書記者たちは皆、聖書を神の言葉と信じていたと言うことができるわけである。<br /><br />聖書が誤りのない神の言葉と信じた人々がキリスト教会の歴史の中核を形成してきた。古代の多くの教父たち(キリスト教会の指導者たち)を初め、宗教改革者たち、近代における多くの外国宣教師たちは皆そうであった。<br /><br />聖書を誤りのない神の言葉と信じる人々は、何か問題が起ると、神の言葉である聖書に解答を求めて、解決することができ、勝利者として歩むことができる。これほどすばらしいことはない。死の恐れの問題も、人として生きる喜びについても、聖書から解答が与えられる。聖書が神の言葉であるということを信じる根拠について、さらに深く知りたい方は、拙著「聖書の権威」(羊群社)を参照されたい。唯人http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-52582830125926909422008-04-26T23:27:00.004+09:002008-04-26T23:33:32.078+09:00罪の現実3 - 悔いのない人生<a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://bp2.blogger.com/_U-0nWGwLEdY/SBM89YvASiI/AAAAAAAAAL4/ATURnVFP_LI/s1600-h/080420_161936.JPG"><img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://bp2.blogger.com/_U-0nWGwLEdY/SBM89YvASiI/AAAAAAAAAL4/ATURnVFP_LI/s200/080420_161936.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5193561820597602850" /></a>私たちの人生はたった一度しかないもの、やり直しのきかないものだ。このたった一度しかない人生を、私たちはどのように送るべきだろうか。<br /><br />多くの若い人たちの願いは、きよく、正しく、美しく生きたいということだろう。若い人たちは正義にあこがれ、純粋を求め、真実でありたいと望んでいる。これがまだ世間に出て汚れていない人たちの姿である。しかし、この人たちが世の中に出て、何年、何十年とたっていくと、ほとんど一人の例外もなしに不純になり、醜くなり、うそと偽りで固めた人生へと陥ってしまう。それはなぜなのだろうか。一生涯、きよく、正しく、美しくありたいという願いを貫いていくことはできないものなのだろうか。<br /><br />わが国では、きよさ、正しさ、美しさというものは無力なもの、それに反して力のあるものは、多少、不純でも醜くても、汚れていても仕方がないものという考え方が一般的だ。<br /><br />きよく、正しく、美しくありたいという願いを生涯貫き通す道は決してないわけではない。一時、「三十以上の人は信用するな」という言葉がはやったことがあったが、三十歳以上、つまり中年以後の大人だけが不純なのだというのだろうか。そのように言う青年たちの心の中に、すでに不純の種は蒔かれているのである。若い人たちは、まだ発芽していないのを見て、自分たちのうちに正義や真実や純粋だけしかないと思い込んでいるけれども、やがてその不純の種が発芽し、花が咲き、実を結ぶのである。このように、若い時には、きよく、正しく、美しくありたいとあれほど熱望していた思いが、いつしか消えて、現実派となり、醜くなり果てていくのではないだろうか。<br /><br />そういうことが分ると、決して自分の力で、きよく、正しく、美しくありたいという願いを一生涯貫き通し、実行できるなどとは言えないことが分る。私たちを不純にし、醜くし、堕落させてしまうものを取り除くことは、自分の力ではできない。というのは、それが罪だから。罪は、それを犯した人が自分でそれを取り除くには、その罪の償いがなされなければならない。罪はいつでもそれを犯した人に対して、償いを要求する力を持っている。その償いが終るまで、その力は決して失われることはないからである。唯人http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-72482135414980715672008-04-23T00:35:00.003+09:002008-04-23T00:41:15.057+09:00健康について 8/8<a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://bp0.blogger.com/_U-0nWGwLEdY/SA4GaIvAShI/AAAAAAAAALw/4B7NGK69W08/s1600-h/080415_175317.JPG"><img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://bp0.blogger.com/_U-0nWGwLEdY/SA4GaIvAShI/AAAAAAAAALw/4B7NGK69W08/s200/080415_175317.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5192094466495760914" /></a>ある胃潰瘍の患者と会った時、彼がその雇主をものすごく憎んでいることが分った。彼が働いている店の主人は、ひどい男で、労働法に引っかからないようにして彼を苦しめるというのだ。そのため、彼は主人を憎むようになり、その憎しみが心の中に積り積って、彼の体を悪くしたことが分った。医者も彼の胃潰瘍の原因が精神的な抑圧によるものだと言ったそうだ。激しい憎悪がついにこの人の胃に潰瘍を作ってしまったわけである。<br /><br />彼に会った時、私はこう言った。「あなたの立場に立って考えてみると、本当にお気の毒です。しかし、あなたの解決はただ一つしかありません。それは、仕返しをしようと思わないことです。聖書にはこう教えられています。『主は仰せられる、「仕返しはわたしのもの。わたしが報いをする。」』(ローマ12:19)。あなたの憎しみを神にお任せし、あなたの精神的な負担を軽くされることです。あなたの胃潰瘍の本当の原因は憎しみなんですから、胃潰瘍になった個所を、手術して取り去っても、心因を取り除かなければ、決して根治はできませんよ。あなたの憎しみ、仕返しを神様に任せてしまうことです。」<br /><br />その人はこう言うのだ。「どうしてそんなことができるんですか。」そこでわたしはその人にこう言った。「その相手の人を憎む代りに、その人のために祈り、その人が祝福されるように神様に願うことです。」彼はそれを聞くと、驚いた様子で私の方を見た。「そんなことができるもんですか。あんな奴のために祝福を祈れって言うんですか。そんなことができるくらいなら、こんなに苦しむもんですか。」彼は吐き出すように、こう私に言った。<br /><br />私はさらに言った。「それ以外の方法では、決して治りませんよ。この愛の力によって相手を打ち負かすというこの方法こそ、最も正しい医学的な方法なのです。精神医学においては、実はこの方法しかないんですよ。「善によって悪に打ち勝ちなさい」(ローマ12:21)という聖書の御言葉をご存じですか。敵に対して、あなたが善意を持ち始めると、あなたの心から恨みや憎しみが消えて、心には平安が与えられるのです。あなたの心から緊張がなくなると、もう二度と胃潰瘍によって苦しめられることはないでしょう。」<br /><br />この人は、自分でいろいろ考えたすえ、もう一度私の所へ来て、「どうしても治りたいので、聖書が教えている『自分の敵を愛し、自分を迫害する人のために祈りなさい』(マタイ5:44)を実行したい」と言って来られた。そして、ついに胃潰瘍の苦しみから解放されることができた。唯人http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-64043924149770523282008-04-20T00:05:00.006+09:002008-04-20T00:40:38.799+09:00罪の現実2 - 生きる喜びを見失った人生<a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://bp0.blogger.com/_U-0nWGwLEdY/SAoR1DII-dI/AAAAAAAAALo/7kURlwzMEbQ/s1600-h/080415_175220.JPG"><img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://bp0.blogger.com/_U-0nWGwLEdY/SAoR1DII-dI/AAAAAAAAALo/7kURlwzMEbQ/s200/080415_175220.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5190981123568105938" /></a>今日どれほど多くの人が生きる喜びにあふれて生きているだろうか。この生きる喜びというのは、生きていること自体についての喜びだから、いわゆる官能的な喜びとか快楽などとは性質の違うものである。今日多くの人々が、人生にも仕事にも家庭にも喜びを見いだすことができず、快楽にそれを見いだそうとしていることは悲しむべきことである。確かに、快楽もまた生命力の発現であり、賛歌であるわけだが、人間が人格的な存在である以上、その人格から切り離された満足は、いわば線香花火のようにはかないもので、束の間の華々しさでしかない。人格の大切な部分が満たされないままの満足というものは、必ず後に苦いものが残る。「快楽尽きて哀愁を知る」のである。快楽の後の言いようのない倦怠感と空虚感を一度でも味わったことがあるのであれば、そのことは実感として分ることだろう。<br /><br />生きる喜びというものは、いつでも未来に向かって明るい光であって、そこに希望と信頼の心があるものだ。そのような意味で、あなたは生きているということに喜びを持っておられるだろうか。<br /><br />また、本当の喜びというものは、利他的な要素を持っている。だから、生きる喜びを持っている人は、ほかの人に対して恨みやねたみを感じにくく、むしろ寛大であることができる。たとい自分よりも幸福な人がいるのを知っても、その人に対して憎しみを抱くようなことがない。というのは、生命が充実しているからである。むしろ、自分がこのように生きる喜びにあふれていることを、当然のこととして受け取ってもよいものかどうかとまどうことさえあるくらいである。<br /><br />生きる喜びというものは、人生の困難に耐えることができ、困難があっても、それでへこたれてなどしまわず、かえって生きがいを覚えるものである。どんな人でも、自分が何かに向かって前進していると感じるなら、その努力や苦しみも、やりがいのあるものとして受け止めることができ、むしろ生命の充実感を味わうことができる。<br /><br />このような充実感をあなたは持っておられるだろうか。人間として生きるというこの重要な問題は、必ず一度は考えてみなければならない問題である。これを避けて通ることは、人間として生きることを避けていることにほかならない。唯人http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-47143858541303918282008-04-16T00:41:00.004+09:002008-04-16T00:50:45.014+09:00健康について 7/8<a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://bp0.blogger.com/_U-0nWGwLEdY/SATN_m7kTQI/AAAAAAAAALg/zGatNXnn1J4/s1600-h/080327_143549.JPG"><img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://bp0.blogger.com/_U-0nWGwLEdY/SATN_m7kTQI/AAAAAAAAALg/zGatNXnn1J4/s200/080327_143549.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5189499163303496962" /></a>フランスのハンス・レリー教授が、1954年に、フランスの生物学会に、今日レリー現象と呼ばれるものを発表したことがあった。これは、チフス菌を使って実験したのであるが、彼は細菌の感染や発病は、自律神経の刺激によってはじめて起るもので、もしも自律神経が不動の状態であれば、細菌感染による発病はないはずだというものであった。<br /><br />それまでは、腸チフスにせよ、結核にせよ、ヂフテリーにせよ、百日咳にせよ、こういう伝染性の病気は、それぞれにチフス菌、結核菌、ヂフテリー菌、百日咳菌によって起るものだと考えていたのだが、レリー学派の研究によると、このような病気は、特別に異なった病原菌によらなくても、自律神経の刺激によって起される病理現象だと言うのである。<br /><br />彼らの実験によると、チフス菌によらなくても、チフス菌が刺激する自律神経の個所をピンセットでつまんだだけで腸チフスと同じような症状が起ったと報告している。だから、レリー学派の研究によると、細菌そのものの作用は、自律神経を刺激するだけの役割しか果していないということである。<br /><br />レリー学派の研究によると、人体にはクロールプロマジンという自律神経遮断剤があって、病原菌が体内に進入してくると、すぐにこのクロールプロマジンが自律神経を守るというのだ。たといあの猛毒な黄燐(それを主成分としたものが、「ねこいらず」である)さえも無害にしてしまうと報告している。黄燐というのは、肝臓を黄色にして脂肪肝にしてしまう猛毒を持っているのだが、クロールプロマジンで自律神経を遮断しておくと、全然影響がないというのである。<br /><br />新約聖書の中の「使徒の働き」において、パウロがローマに捕えられて護送されて行った時のことが記されている。その中にこういう個所がある。パウロがマルタ島でたき火に当っていた時、くべた柴の中から出て来た毒蛇にかまれた時のこと、その土地の人々はパウロがその毒のために倒れてしまうに相違ないと思って見ているのだが、パウロは毒蛇にかまれながらも、倒れることも死ぬこともなかった。それは、彼がローマを見るまでは決して死ぬことはないと確信していたからである。しかも、その彼の確信は、単なる彼の思い込みによるものではなく、聖霊の神によるものであったのである(使徒28:1-6、19:21、27:24)。唯人http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6451250044086149910.post-84052280205388623022008-04-12T22:17:00.004+09:002008-04-12T22:24:23.107+09:00罪の現実1 - 失われてゆく純粋さ<a onblur="try {parent.deselectBloggerImageGracefully();} catch(e) {}" href="http://bp3.blogger.com/_U-0nWGwLEdY/SAC3qMXtgCI/AAAAAAAAALY/P3cpNCCoc24/s1600-h/080411_102229.JPG"><img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://bp3.blogger.com/_U-0nWGwLEdY/SAC3qMXtgCI/AAAAAAAAALY/P3cpNCCoc24/s200/080411_102229.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5188348706233876514" /></a>私たちは一人前の大人になっていくにつれ、大切なものを失っていっていることにどれだけ気付いているだろうか。<br /><br />有名な女流文学者パール・バックが彼女の経験を述べている本がある。彼女の少女時代の夢は、自分の家が子供たちで一杯になることだったそうだ。ところが、後になって結婚すると、彼女には後にも先にもたった一人の娘しか生れず、こともあろうに精神障害児だったのだ。そのことを知った時の心境を彼女はこう記している(「母よ嘆くなかれ」)。<br /><blockquote>「避けることのできない悲しみ、どんなにしてこの悲しみに耐えることができるかを学ぶのは、やさしいことではありませんでした。今日になってこそ、それをよく振り返ってみることができますが、それまでにいたるのは、きびしい越えがたい道でした。両親よりも長生きするかもしれない子供の生命を、どうしたら守れるかという問題にくわえて、私たち自身のみじめな生活を一体どうしたらよいだろうかという問題まで、のしかかってくるからです。人生のすべての明るさも、親としての誇りもなくなってしまうのです。・・・しかし多くのことを私は娘から学びました。とくに、娘は私に忍耐することを教えてくれました。・・・私が歩まなくてはならなかったこの最も悲しみに満ちた道を歩む間に、私は人の精神はすべて尊敬に値するということを知ったのでした。すべての人間は平等であり、そしてまた人間として同じ権利を持っているということをはっきり教えてくれたのは、ほかならぬ私の娘でした。・・・私はどんな人でも、人間であるかぎり、他の人々より劣等であると考えてはいけないと、そしてすべての人はそのいるべきところと安全を守られなくてはならないと思うようになりました。・・・娘はまた知能が人間のすべてではないことも教えてくれたのです。娘の性質の中には、何か不思議な真実なものがあって、あらゆるうそがはっきり分るようでした。そして、どんなうそも彼女は決して許しませんでした。何かすぐれた純粋さを、娘は持っておりました。」</blockquote><br />今日、私たちの間には、真実とか純粋というものが失われ、損をするか得をするかという損得勘定しか優先しない恐るべき功利主義を見るのは何とも悲しいことではないだろうか。唯人http://www.blogger.com/profile/09214241070317987182noreply@blogger.com