tag:blogger.com,1999:blog-211320952008-07-24T19:58:05.214+09:00片柳福音自由教会 メッセージjraynoreply@blogger.comBlogger78125tag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-4058321987250013452008-06-30T12:51:00.006+09:002008-07-10T17:58:36.754+09:00最も小さい者にしたことは私にしたこと<span style="color:#ffcc33;">〜羊と山羊のたとえ話〜</span><br /><br />2008年6月29日 <br />聖書:マタイの福音書25章31〜46節<br />説教:滝田新二牧師<br /><br />31.人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。<br /><br />32.そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、<br /><br />33.羊を自分の右に、山羊を左に置きます。<br /><br />34.そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。 世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。<br /><br />35.あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、<br /><br />36.わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』<br /><br />37.すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。<br /><br />38.いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。<br /><br />39.また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』<br /><br />40.すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』<br /><br />41.それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。<br /><br />42.おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず渇いていたときにも飲ませず、<br /><br />43.わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』<br /><br />44.そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』<br /><br />45.すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』<br /><br />46.こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」<br /><br />序. 先週に続いて主の再臨を待ち望むクリスチャンの生き方について御言葉を受ける。神の評価の2回目。<br /><br />1 最後の審判<br /><br />(1) 羊と山羊とに分けられる (31〜33・34・41・46)<br /><br /> 羊は従順、山羊は自己中心というイメージがある。イエス様の再臨の時まで羊と山羊、麦と毒麦のたとえ話のように、本当のキリスト様の弟子とそうでない者が共にいる。しかし最後には、主の審判がある。一方は、神の祝福を受けた者として神の御国を受継ぐ。しかし、もう一方は神ののろいのもとに置かれる。<br /><br />(2) 良い行いと信仰義認との関係<br /><br /> ここを読むと、「行ないによって人は義とされる」かのような印象を受けるがそうではない。良い行いは救いの根拠ではなく救いの結果・証拠である。「信仰による義(信仰義認)」は救われる条件の全てではあっても、信仰生活全体の全てではない。受洗は求道の最終結果ではなく信仰生活の出発であり、結婚はゴールインではなく、スタートラインであるようにである。イエス様を信じたら救われる。そこからイエス様と共に生きる信仰生活が始まる。その信仰生活の実質(御霊の実)を証拠として問われている。<br /><br />2. 愛は行動に現れる (35〜40節) <br /><br />(1) 隣人愛の真価が問われている<br /><br /> このみことばは私たちに愛の真価を問う。ここに出て来る困った状況(35-36節)を分析して見よう。 <br /><br />①「空腹と渇き」日常的に困ったこと。 <br /><br />②「旅行と裸」特別な時に困ったこと。 <br /><br />③「病気と牢」肉体的、社会的な窮地。<br /><br /> 聖書の黄金律はこう教えている。(マルコ12:29-31)私たちは悲しむ者と悲しみ、喜ぶ者と喜ぶことは難しい。そんな自己中心の私たちがまだ罪人であった時に、イエス様は私たちの罪を負って十字架に死んでくださった程に私たちを愛しておられる。 その愛は完全である。「これらの私の兄弟たち」と言われているのは、教会の兄弟姉妹のことである。神の愛はこの兄弟姉妹の喜びを喜びとし、悲しみを悲しみとする。教会にも小さい者がいる。子ども、お年寄りや、病気の方・障害者たちである。その小さい者のために私たちの教会はグループホームを作った。<br /><br />(2) 主の愛に心を満たされて 〜イエスとの出会い〜<br /><br />例話①: インドのスラム街の中で一生を捧げたマザーテレサ 「私は朝早く礼拝を捧げることを通してイエス様と出会い、道端で死んでいく人に一口のスープを飲ませ、死に行く人を一人の人間として死の看取りをする、その人を通して先にその人々の所に行っておられるイエス様と出会っているのです」 マザーテレサは、毎日イエスと出会う祈りをもって生活し、神の愛に満たされて行動した。「私たちの働きは、大海の一滴に過ぎないかも知れません。しかし、その一滴がなければ大海はできないのです」と。さらに「神と共にいて幸せであるとは、神が愛されるように人を愛し、神が助けるように人を助け、神が与えるように与え、神が仕えるように仕え、・・・ 苦しむ人の姿をまとっているイエス様に手を触れることなのです」 今日も多くの人がイエス様の手足となって、教会や社会で奉仕し、神と人々に仕えている。<br /><br />例話②:『靴屋のマルチン』は、このマタイ25章を題材に、ロシアの文豪トルストイが作った作品である。<br /><br />結 論: 愛は行動である 〜目を外に向けなさい〜<br /><br /> 『靴屋のマルチン』は心温まるストーリーである。マルチンはいつも靴に関心を持っていたが、靴を履く人には関心がなかった。今まで、通りを歩く人は風景の一部であったり、自分の生活の糧を持ってくる媒体でしかなかった。しかし、主が「マルチン、外を見なさい!」と呼びかけられた。 私たちは、家族や周りの友人は、人として見えても、少し遠くの人(教会の兄弟姉妹や親戚や学校・職場の人)はモノであったり、風景であったりすることが多い。しかし、今週は通りを見ることができるように祈ろう。 毎日の生活や働きの中で、御言葉と聖霊様の導きの中で、気付いた領域に足が向き、祈りと愛が行動となり、結果的にそれがイエス様に対する奉仕であったという人生を歩もう。 <br /><br />主よ感謝しますjraynoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-47815074759947376932008-06-26T13:55:00.006+09:002008-07-10T17:59:18.187+09:00神の評価・人の評価<span style="color:#ffcc33;">〜タラントのたとえ話より〜</span><br /><br />2008年6月22日<br />聖書:マタイの福音書25章14〜30節<br />説教:滝田新二牧師<br /><br />14.天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。<br /><br />15.彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。<br /><br />16.五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。<br /><br />17.同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。<br /><br />18.ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。<br /><br />19.さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。<br /><br />20.すると五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』<br /><br />21.その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』<br /><br />22.二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』<br /><br />23.その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』<br /><br />24.ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。<br /><br />25.私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』<br /><br />26.ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。<br /><br />27.だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。<br /><br />28.だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』<br />29.だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。<br /><br />30.役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。<br /><p>序.(人の評価) 私たちは、その能力や働きによって評価される。子どもはテストの成績や偏差値で、社会人は仕事の業績・結果で評価される。では「神の評価」とは何か? この「タラントのたとえ話」が語られた25章全体は、主の再臨を待ち望むクリスチャンの態度、生き方がテーマとなっている。<br /><br />1. タラントのたとえ話 (25:14〜18)<br /><br />① すべての人に神の賜物(能力)が与えられている。(14〜15節)<br /><br />このタラントは、英語の(Talent)で、現代のアイドルの「タレント」と同じ言葉である。このタラントは生まれつきの特別な才能ではなく主人から預けられたものである。つまり人は誰でも、神から「能力・財産・時間等」を預けられているというのが聖書の教えである。自分の所有物は自分のモノと思い違いしやすいが、本当はすべては主のモノであり、主から預かっているにすぎない。 1タラントは当時の貨幣の単位である。1タラント=6,000デナリ。当時1日の労働賃金が1デナリであった。これは約20年分の労働賃金にあたる。当時の貨幣では1タラント=金41キログラムである。(現在の貨幣価値に換算すると先週の相場は金1g=約3,200円であるので、1タラント=1億3000万円。 2タラント=2億6,000万円。5タラント=6億5,000万円となる。)<br /><br />② 3人のしもべたちはタラントをどうしたか? (16〜18節)<br /><br /> 5タラントのしもべは、商売をして、さらに5タラントをもうけた。合計で13億円になった。2タラントのしもべは、2タラントもうけた。合計で5億2000万円となった。ところが1タラントのしもべは、何もしないで、土地を掘って、主人の金を隠した。<br /><br />2. 神の国の価値基準 〜神の評価〜 (25:19〜28)<br /><br />やがてご主人様が旅から戻って来た。そして精算と評価がなされた。5タラントと2タラントのしもべは、共に誉められた。ここで注目すべき事は、2人の儲けた金額は違うが主人は同じ言葉で誉めている。<br /><br />① 忠実であること (21・23節 比較評価ではなく、忠実が評価される)<br /><br /> 『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』神の評価は学校の偏差値や仕事の実績、どれだけ多くの人に伝道し、救いに導いたかではない。Doingの世界ではなくBeing(存在の喜び)の世界。そこで求められるのは、小さな事に忠実であること。主は、あなたの忠実さを評価される。 私たちに劣等感や優越感が起こるのは人と比較する所にある。(参照:Ⅱコリント10:12)<br /><br />② 感謝すること (25:24〜28)<br /><br />1タラントのしもべは働きもしない。問題点は何か? 26節に「悪いなまけ者」、彼の問題は「怠慢」だった。このしもべの誤りは、主人観(神観)の誤りに基づいている。聖書が啓示している正しい神を知ろうとせず、この間違った歪んだ主人観(神観)が、間違ったしもべ観を生み出している。彼は、本当には主を知ってはいない。神の愛が理解できない。不義なる者には、義さえも不義に見える。<br /><br />結 論: 『小さい事に忠実な人は、大きな祝福を受ける』<br /><br />① 人を喜ばすのではなく、主を喜ばす<br /><br /> 聖霊様の賜物を頂いた私たちは、その賜物を主のために喜んで感謝して、用いる事が大切である。<br /><br />② 「小さな事に忠実」になる(ルカ16:10) 〜各自、自分の分を尽くす〜 <br /><br />③ 主は忠実な者に、大きな報い(祝福)を与える(23・28〜29節)<br /><br /> 主があなたにタラントを与えたのは人と比較して、自分の値打や価値を誇るためではない。主の目的は、将来の主のご計画の中であなたを用いるために、その忠実さを見ることにある。<br /><br />主よ感謝します </p>jraynoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-44180644070039624252008-06-16T13:29:00.012+09:002008-07-10T17:59:57.269+09:00あなたの父と母を敬いなさい<span style="color:#ffcc33;">~人生の祝福の土台~</span><br /><br />2008年6月15日 父の日礼拝<br />旧約聖書: 申命記5章16節 <br />説教:滝田新二牧師<br /><br />「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。それは、あなたの齢が長くなるため、また、あなたの神、主が与えようとしておられる地で、しあわせになるためである。」<br /><br />序.今日は「父の日」である。父の日の由来は、アメリカの南北戦争後、妻に先立たれ男手1つで6人の子どもを育て上げたウイリアム・ジャクソン・スマート氏を称え、娘のジョン・ブルース・ドット夫人により提唱された。 1916年 第28代米国大統領ウイルソンによって『父親を尊敬し、称え祝う日』が認知された。<br /><br />1. 親の愛 〜神の愛に近い〜<br /><br /> "親の愛"というのは、"神の愛"に近いと言われる。 <br /><br />例話:① ポンペイ遺跡から腕に赤ちゃんを抱えた母親の遺体が発掘された。<br /><br />例話:② ロシア革命で食べる物も無く、歩く事もできない母親がナイフで乳房を傷付け、我が子が1日でも生き長らえる為に血をふくませた。<br /><br />2. あなたの父と母を敬え 〜あなたが幸せになるために〜<br /><br /> 主は『あなたの父と母を敬え。 そしてそれはあなたがしあわせになるためである』と語っている。「親子関係」は、人間として生きる大切な土台である。これがあなたが幸せになる為の土台"である。<br /><br />3. 心の傷は、いやされる <br /><br />「しかし彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちへの咎のために砕かれた。 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼への打ち傷によって、私たちは癒された。 」 (イザヤ書53章5節)<br /><br /> 幼い頃、言葉や暴力で虐待を受けた子どもは、容易に「父と母を敬う」ことはできない。 私たちは様々な"傷"というものを持っている。 けれどもイエス様の十字架は、あなたの心の傷をいやされる。では具体的にはどうしたら親に対する傷をいやして頂く事ができるのか?<br /><br /> 例話:図-① 主は、私たちの人生に驚くほど豊かな祝福を注ぎたいと願っておられるのに、その祝福の流れが妨げられている。祝福をせき止めている丸太は、幼い頃の罪深い私たちの反応(怒り・裁き・偽りの誓い)である。 <br /><br /> 例話:図-② 木の絵は心の発達図である。大人になってから経験する問題・悪い実の原因は、その人の幼少期の体験にある。木の「根」の部分(両親との関係・トラウマ・傷、怒り・裁き等)にある。告白していない罪や、いやされていない傷があると、主の祝福を十分に受けられない。このような罪や傷は、私たちの内に不信仰の心を作り出す。だからいやしが必要なのである。<br /><br />結 論: 『祈りによって主の祝福を受け取る』 〜5つのステップ〜<br /><br />「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。 そうすれば、人のすべてに考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。 」 (ピリピ4章6〜7節)<br /><br />まず主の前に、正直にあなたの心の傷を、痛みを告白することである。主はあなたの心の傷をいやされる。誰でも、御言葉と聖霊様の導きで、幼少期の親との出来事や過去の罪や傷を知る事から始まる。<br /> 主のいやしと回復の5つのステップがある。 <br /><br />① 認識し(気づき)、<br />② 告白し、<br />③ 悔い改め、<br />④ 十字架の赦しを受け、<br />⑤ 復活の新しい命の注ぎを受けることである。 <br /><br />こうして神との関係を回復し、自分の内なる人のいやしと解放を体験し、夫婦や親子の関係の和解と回復を受けることができる。不平不満の人から、感謝の心の持てる人に変えられる。聖霊様の恵みと力によって、傷つき痛んでいる心が回復し、主の大きな祝福を受け取り、幸せな人になる。 感謝に溢れる人と不平とつぶやきにあふれる人。 あなたは、今どちらの道を歩んでいるだろうか?感謝に溢れ、主が「幸せになる」と言われる祝福された道を進んで行こう!<br /><br />主よ、感謝します。jraynoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-46599721808747507262008-06-13T12:56:00.004+09:002008-07-10T18:00:45.377+09:00イエス・キリストの御名によって<span style="color:#ffcc33;">~人生は出会いで決まる~</span><br /><br />2008年6月8日 <br />新約聖書:使徒の働き3章1~10節 <br />説教:滝田牧師 <br /> <br />序:最近、人気女子アナの練炭自殺や生きる希望を失った若者がネットを通して硫化水素ガス自殺が続いている。一緒に死ぬことにしか希望ななければ、それは生ける屍のような人生である。2000年前のエルサレムの神殿の入り口の黄金の門の前にも希望のない屍のような青年が置かれていた。 <br /><br />1. 生ける屍 ~生まれつきの身体障害者~ (3:1~2)<br /><br /> 足の不自由な障害者である一人の人間が神殿の「美しの門」の前に、毎日物乞いのために、まるで物のように「置かれていた」。 この若者は、障害者ゆえに神殿に入ることも許されず、希望のない生ける屍のような人生であった。<br /><br />2. 生ける希望の人 ~変えられたペテロとヨハネ~ (3:1~3)<br /><br />ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上った。これは、弟子たちに聖霊が注がれて、教会が誕生したペンテコステの後の出来事である。ペンテコステの出来事は弟子たちを変えた。ユダヤ人を恐れ、びくびくしていた者が、大胆に福音を語る者に変えられた。弟子たちは、イエス様のように宮に堂々と上り、みことばを語った。彼らは、聖霊様に満たされて、迫害をも恐れず、希望の人に変えられた。<br /><br />3. 主イエスの御名によって ~人は何を求めるのか?~(3:3~8)<br /><br />人は、本当に求めるべきものを見失っている。私たちにとって本当に必要なものは、イエス様であり、主に信頼する歩みである。しかし、私たちは、日々の忙しさの中で、この青年のように生活の糧、お金を得ることが先決になってしまう。 <br /><br /> ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるヘ私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。主イエスの御名によって、歩きなさい」と言って、彼の右の手を取って立たせた。(3:6~7節)<br /> 私たちも、人々から助けを求められる。自分が無力であっても気落ちする事はない。福音を語り伝え、イエス様の御名によって立ち上がるように助け励ますことができる。<br /><br /> 問題は、私たちが自身がそのことを確信し、「イエス様の名によって、歩きなさい。」と大胆に言い切る事ができるかどうかである。(参照:使徒3:16・26)<br />イエス様の御名を信じる信仰がなければ、主の御名も、私たちの内に御名の力を発揮しない。 私たちが旧態依然としているのは、主の御名を知りながら、それを信じる信仰を持たず、それにより頼んでいこうとしないからである。 <br /><br /> 使徒3:26の「神は、あなたがたを祝福して、ひとりひとりをその邪悪な生活から立ち返らせて下さる」とある。ここで言う「邪悪な生活」とは道徳的な意味ではなく、「のろいの世界」のことである。のろいの世界では、すべてにマイナスが符号が付いている。<br /><br /> 例話:ドイツの神学者カール・バルトは「人間の世界はカッコの中に入っていて、その《 》の前には、マイナスの符号が付いているものだ。」と語っている。<br /> イエス様はこの「のろい」を取り去るために、この世界に来られた。イエス様が十字架でのろわれた。 人々がつまずくほど、主はみじめになられた。イエス様の十字架によって私たちのみじめさがが解決され、のろいが取り去られた。 こうして、溢れる主の祝福があなたにもたらされた。 <br /><br />結論: 人生は出会いで決まる ~人は聖霊様に変えられる~ (3:9~10・16)<br /><br />9.人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。10.そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」にすわっていた男だとわかると、 この人の身に起こったことに驚き、あきれた。 <br />この若者は、ペテロとヨハネの二人との出会いによって完全に変わる。人が本当の意味で生まれ変わるのは、実際にはイエス様に出会った時である。しかし、主を信じる人との出会いが、イエス様との出会いに私たちを導くのである。<br /> 今もイエス様は、人をいやし変えることができる。主の救いは全人格的な救い、トータルな救いだからである。 <br /><br />3:16「そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。」<br /><br /> 私たち人間の本質的な事が主イエス様によって癒される。 4つのいやし。① 霊的いやし:罪の赦しと救いを経験し、神との交わり・関係が回復する。 ② 肉体的な癒し:瞬間的に癒される場合もあるが、時間をかけて癒されることもある。しかし、天国では完全にいやされる。 ③ 精神的な癒し:自分自身との和解に導かれ、平安が与えられる。 ④ 社会的な癒し: 家族やと人々とも和解し、人間関係が回復する。<br /><br /> 私たちは、イエス様との出会いによって、罪の赦しと賜物としての永遠のいのちを与えられる。こうしてあなたにも新しい人生が始まる。 学びや仕事、経済が祝福される。<br />あなたは神に仕え、人に仕えるために聖霊様によって変えられるからである。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩るきなさい。」 あなたも、主イエスと出会い、主の御名によって変えられ、主の御名の祝福をもたら者として歩もう! <br /><br />主よ感謝します。jraynoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-44277033513110879272008-05-27T17:49:00.003+09:002008-07-15T13:11:30.408+09:00私は私の教会を建てます2008年5月25日<br />聖書:マタイの福音書16章15~18節<br />説教:滝田新二牧師<br /><br />15.イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」<br />16.シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」<br />17.するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このこと をあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。<br />18.ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会 を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。<br /><br />序. 今日の『献堂式』にあたり、「教会とは何か?」について主の御言葉を受けよう。<br /><br />① 教会は、キリストを信じる者たちの共同体である。(16:15~16)<br /><br />ピリポ・カイザリヤでのペテロのキリストへの信仰告白が「あなたは生ける神の子キリストです」である。教会はこの「信仰告白」の上に建てられる。組織、お金、活動ではない。主イエス様こそ唯一の救い主と信じる信仰である。 あなたはこの告白に立っているか? あなたは救いの確信を持っているか?<br /><br />② 教会は、キリストに従う者たちの共同体である。(16:21~25)<br /><br /> ペテロの失敗(16:21-23):メシアの苦難、十字架を理解していなかった。私たちも自分勝手な理解をしているかもしれない(自分中心の信仰)、主が求めておられる全面的な献身(神中心の信仰)である。あなたは、キリストを救い主と信じているか、そしてあなたの人生の主・王として従っているか? 例話:水野源三氏 30年間 6畳1間から動かなかった詩人。 「悲しみをありがとう、苦しみをありがとう。お前が来なければ、わたしはイエスを発見できなかった。」 詩編119:71「苦しみあったことは私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」<br /><br />③ 教会は、キリストに選ばれた者たちの共同体である。(16:17~18)<br /><br /> 教会は、ギリシャ語で「エクレーシア」(召し集められた者たち)という意味である。教会は、キリストによって集められた信仰の共同体である。あなたは主によって選ばれた者である。<br />* ヨハネ16:16「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためです。」<br /><br /> *「教会」についてパウロの教え(エペソ人への手紙1:9~11)「みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。このキリストにあって、私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。」<br /><br />* 出エジプト記19:5-6「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」<br /><br /> 主の十字架の死と復活により、私たちは、教会につながる者とされた。そして全世界のための主のご計画の中で、私たちは、主の宝、祭司であり、聖なる国民とされた。教会は、ペンテコステ日に、聖霊が降臨されて誕生した。神は唯一で、御霊は1つ、信仰は1つである。キリストの体なる教会も1つである。目に見えない普遍の教会と目に見える地域にある地方教会、そこに私たちは属している。 今日、私たちはこの神にのみ依存し、全人類のための働きのために、キリストにあって教会に加えられ、用いられ、生かされている。<br /><br />結 論: 「私たちの教会を建て上げられるのは主イエス様である」<br /><br /> 「わたしはこの岩の上に私の教会を建てます。」(マタイ16:18)と主イエス様は言われた。この「岩」とは、父なる神がペテロに与えられた信仰告白「あなたは、生ける神の御子、キリストです。」を指している。その素晴らしい信仰告白をしたペテロは3度も主イエス様を裏切った。 主は、この弱いペテロを教会のために用いられた。偉大なペテロではない。私たちも同じである。弱さと欠けを持った私たちが御言葉と聖霊様によって日々、主の似姿へと変えられ、教会(キリストの体)の交わりの中で養われ、神の目的のために用いられる。 こうしてあなたも主に用いられて、地上の教会が建て上げられるのである。<br /><br />主よ、感謝します。 jraynoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-51103894005466723932008-05-15T09:48:00.004+09:002008-07-03T16:55:04.315+09:00聖霊降臨の祝福2008年5月11日 ペンテコステ礼拝 <br />新約聖書: 使徒の働き 2章14〜21節 <br />説教:滝田新二牧師<br /><br />2:14.そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言った。 「ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々。あなたがたに知っていただきた いとがあります。どうか、私のことばに耳を貸してください。2:15.今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではあ りません。2:16これは、預言者ヨエルによって語られた事です。2:17『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息 子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。2:18.その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると彼らは預言する。2:19.また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火 と立ち上る煙である。2:20.主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。2:21.しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』<br /><br />序. 本日は“ペンテコステ”(聖霊降臨)の記念礼拝である。イエス様が十字架に架かり、私たちの罪の身代わりとなって死なれ、復活されて、40日間人々に現れ、天に帰られて10日後、復活から50日目に、1つ所に集まって祈っていた弟子たちに聖霊様が降臨された祝福の時、教会が誕生した記念日である。聖霊降臨の祝福の恵みを受けよう。<br /><br />1. 聖霊降臨の祝福 (2:16〜18)<br /><br />2:17『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や 娘は 預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。<br /><br />① 聖霊による宣教の祝福<br />17節「あなたがたの息子や娘は預言する」の預言とは御言葉の宣教のこと。この日ペテロの説教で三千人がイエス様を信じて救われ、教会はスタートした。教会の誕生と世界宣教のスタートである。以来、2,000年に渡り、福音は全世界に宣べ伝えられてきた。片柳教会の私たちも、各自の家庭や学校から、世界に向かって御言葉の宣教の祝福を受けて行くのである。<br /><br />② 聖霊によるビジョンと夢の祝福<br />(17節.青年は幻を見、老人は夢を見る) 英語では《your young men will see visions, your old men will dream dreams.》<br />例話:70歳でエベレスト登頂した三浦雄一郎氏『老いは怖くない。目標を失うのが怖い。』<br />聖霊様に満たされたクリスチャンは、キリストの愛に変えられて、主からビジョンが与えられ、神の目的のために生きるようになる。<br />私たちの片柳教会も『キリストの愛に変えられた、誰でも安心できる教会 〜地域に開かれた、誰でも安心できる教会〜』という教会のビジョンに従ってグループホームが実現して、今年、新会堂も完成した。聖霊様は、夢とビジョンに生きる教会に変えてくださった。<br /><br />③ 聖霊による聖化の祝福 〜主の似姿へ変えられる〜<br />私たちは、一人一人、イエス様の似姿へと聖霊様は変えてくださる。<br />ガラテヤ 5:22-23「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」<br />ピリピ 3:21「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」<br />2. 聖霊様に満たされなさい (エペソ5:18)<br />「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」(エペソ5章18節)<br />聖霊に満たされる事はクリスチャンがクリスチャンとして生きるためには必要不可欠な主の祝福である。聖霊様に満たされずにクリスチャン生活を歩もうとすると難行苦行となる。 <br /><br />結 論: 聖霊充満のクリスチャンになろう!<br /><br />① 大胆に主を求め、待ち望む<br />使徒1章で、弟子たちは主を待ち望み心を1つにして祈っていた。あなたも「私には喜びがない。力がない。主よ、私を聖霊様に満たして下さい。」と大胆に主を求め、待ち望もう。<br /><br />② 罪を悔い改めて、きよめられる<br />聖霊様は聖いお方。主の十字架によって罪が赦された者の内にしか住むことができない。もし、あなたの内にある罪を、告白し、聖められないならば、満たされない。あなたには自分の罪を告白する必要がないか? 「もし、私たちは自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(Iヨハネ1章9節)<br /><br />③“御霊に満たして下さい”と祈り、主に明け渡そう!<br />「どうぞこの私を聖霊様に満たして下さい」と日々祈ろう! そして、あなたの全てを主に明渡していく事が必要である。あなたの自我は(そうしたくない)と思う。あなたが握りしめているものはないか? 自分の中で葛藤があっても最終的には「委ねます。お捧げします!」と祈る者になって頂きたい。その時にあなたは聖霊様の満たしを体験するだろう。聖霊充満で歩もう!<br />主よ、感謝します。jraynoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-12930765787036467752008-05-06T19:01:00.003+09:002008-07-03T16:56:06.856+09:00天国 <span style="color:#ffcc33;">〜新天新地の祝福〜 あなたは天国人ですか?</span><br /><br />2008年4月27日 召天者記念礼拝 <br />聖書:ヨハネの黙示録21章1〜27節<br />説教:滝田新二牧師<br /><br />1.また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。<br />2.私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神 のみもとを出て、天から下って来るのを見た。<br />3.そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、<br />4.彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」<br />5.すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」<br />6.また言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。<br />7.勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。<br />8.しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、 偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。 これが第二の死である。」<br />9.また、最後の七つの災害の満ちているあの七つの鉢を持っていた七人の御使いのひとりが来た。 彼は私に話して、こう言った。「ここに来なさい。私はあなたに、小羊の妻である花嫁を見せま しょう。」<br />10.そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行って、聖なる都エルサレムが神のみもとを出て、天から下って来るのを見せた。<br />11.都には神の栄光があった。その輝きは高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであった。<br />12.都には大きな高い城壁と十二の門があって、それらの門には十二人の御使いがおり、イスラエ ルの子らの十二部族の名が書いてあった。<br />13.東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。<br />14.また、都の城壁には十二の土台石があり、それには小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。<br />15.また、私と話していた者は都とその門とその城壁とを測る金の測りざおを持っていた。<br />16.都は四角で、その長さと幅は同じである。彼がそのさおで都を測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。<br />17.また、彼がその城壁を測ると、人間の尺度で百四十四ペーキュスあった。これが御使いの尺度 でもあった。<br />18.その城壁は碧玉で造られ、都は混じりけのないガラスに似た純金でできていた。<br />19.都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイヤ、 第三は玉髄、第四は緑玉、<br />20.第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七は貴かんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉、第十 は緑玉髄、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。<br />21.また、十二の門は十二の真珠であった。どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。都の大 通りは、透き通ったガラスのような純金であった。<br />22.私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小 羊とが都の神殿だからである。<br />23.都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都の あかりだからである。<br />24.諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。<br />25.都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。<br />26.こうして、人々は諸国の民の栄光と誉れとを、そこに携えて来る。<br />27.しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行なう者は、決して都にはいれない。 <br />小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、はいることができる。 <br />序:召天者記念礼拝で天に召された兄姉を偲び、やがて私たちも向かう天国の祝福について御言葉を受ける。<br /><br />1. 天国は、すべてが新しくなる (21:1〜2)<br /><br />「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。」(1節)<br /><br />① 救いが完成する世界すべてが新しくなる。世界の歴史の完成・贖いの完成・人類の救いの完成・新しい天と地が再創造される。<br /><br />② 悲しみのない世界天国は、不安や恐れ、危険がない世界。天国は悲しみの全くない、平安と祝福に満ちあふれる世界である。<br /><br />2. 天国は、主と共に住むすばらしい都 (21:3〜4・16・22〜23)<br /><br /> すばらしい天国の栄光が最高の宝石の輝きで表現されている。(例話:ローマを訪ねた天正少年使節)<br /><br />① 神と共に住む (3〜4節)<br /><br />堕落により神と人間との間に生じた隔ての壁を、インマヌエル(神は私たちと共におられる)と呼ばれたイエス様が、十字架の贖いの御業によって取り除かれた。天国は神が人と共に住む祝福された所である。そこでイエス様が、ひざまずいて地上でのあなたの目の涙を拭って下さる。天国は、魂が慰められる。<br /><br />② 神中心の完全な世界 (16・22〜23節)<br /><br />16.「都は四角で、その長さと幅は同じである。彼がそのさおで都を測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。」長さも幅も高さも同じなのは神の臨在を地上で表した神殿の至聖所と同じ。<br /><br />(例話:米国の黒人解放運動の指導者マルティン・ルーサー・キング牧師が、この「都は四角で長さも幅も高さも同じである。」について語っている。それは「全き生命の三次元」である。「長さ」とは「自分を成長させる」次元であり、「幅」とは「他者と共に生きる」愛の次元であり、「高さ」とは「神と共に生きる」信仰の次元である。<br />我々の人生は、この三方向において成長を遂げることである。)主が私たちをありのままに受け入れ、主の十字架を通して救われる時、深い感謝を持って、自分を主の御用のために捧げ、神の使命と目的のために生きる人生が始まる。主に生かされて隣人と神を愛する人生となる。<br /><br />③ 宝石のような私たち聖徒 (18〜21節)<br /><br />「聖なる都エルサレム」は12使徒を土台にして美しい宝石で輝いている。それは全世界の歴史を通して集められた神の民・聖徒、教会全体を表している。宝石の一つ一つは教会の一員とされた私たち一人一人である。<br /><br />結 論: 『 私たちは天国をめざす天国人となりましょう! 』 〜新天新地を待ち望む信仰〜<br /><br />① 神の恵みは溢れてとどまることがない。(6節)<br />「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者 には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。」神には時間はない。永遠のお方である。その神がこの 大いなる恵みをキリストにあって私たちに与えて下さる。<br /><br />② 神の子とされ、祝福を相続する。(7節)<br /><br />「勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。」 この地上で私たちが生きている間は、様々な悲しみがある。しかし、逃げることなく、主が与えてくださ る新天新地を待ち望むのである。(例話:21節の真珠の門とノアの箱船)<br /><br />③ イエス様を信じて天国人となる (花嫁の準備 19:7−8節)<br /><br />「私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。 花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。」<br />あなたは天国人となっているだろうか? 今の時代は、結婚式を前に花嫁が準備をしている時期にたとえられる。花嫁は、結婚式への期待と新郎(キリスト)と共に歩む新しい歩みの希望に心が満たされる。この準備は、第1にイエス様を信じる信仰を持つ事。第2にイエス様ご自身の前に出るための用意をする事である。<br /><br />《マラナ・タ》という言葉は「主イエスよ来てください。」という意味。(参照:22:17-21)あなたは、「主イエス様、来てください」と主に祈っているだろうか? もし、今日イエス様が再臨されても、主を喜んでお迎えできる者、新天新地をめざす天国人となりましょう! <br /><br />主よ感謝します。jraynoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-52093798176085159212008-04-23T10:02:00.003+09:002008-07-17T13:38:04.418+09:00恐れを希望に変える主の平安<span style="color:#ffcc33;">〜私はあなたがたに平安を与えます〜</span><br /><br />2008年4月20日<br />聖書:ヨハネの福音書20章19〜23節<br />説教:滝田新二牧師<br /><br />19.その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があな たがたにあるように。」<br /><br />20.こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。<br /><br />21.イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」<br /><br />22.そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。<br /><br />23.あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」<br /><br />序. イエス様が復活された喜びの日の夕方、弟子たちは、なおも不安と恐れに捕らえられて、戸を堅く閉ざしていた。そこに復活の主が来られた。恐れを希望に変えられた主の平安の秘訣の御言葉を受ける。<br /><br />1. 弟子たちの恐れと不安 〜なぜ?〜 (20:19)<br /><br />① 人生の目的を失っ た。 <br /> イエス様をユダヤの王様、ローマの支配からの解放者・ヒーローと信じていた。しかし、主は十字架の上で釘付けにされ、無力にも死んで行った。その主のお姿は大きな衝撃であった。彼らはイエス様を失い、生きる目標を失って、絶望し、不安と恐れの中にいた。<br /><br />② 身の危険を感じ、ユダヤ人を恐れていた。 弟子たちは、次は自分たちが狙われると心配していた。<br /><br />2. 恐れる弟子たちに与えられた平安 (20:19〜20)<br /><br /> 「週の初めの日」とは、復活された日曜日で、「新しい時代の初めの日」を意味していた。 世界の歴史は復活の日を境に変わった。私たちも、既に、新しい時代に属する神の民とされた自覚を忘れてはいないか? 主は弟子たちの不信仰や臆病さを責める代わりに、「平安(シャローム)があなたがたにあるように」と宣言された。恐れに捕らわれて「戸をしめて」いたにも関わらず、復活の主は入って来られ、平安に満たされた。十字架の傷跡は死の力に打ち勝たれた証拠である。<br />「あなたがたの心は喜びに満たされます。その喜びをあなたがたから奪い去るものはありません」(16:22) 新時代の幕開けである。 <br /><br />3. 派遣される弟子たちへの平安 (20:21〜23)<br /><br /> 主はもう一度、「平安があなたがたにあるように」(21節)と言われた。二つ目の「平安」は、患難に満ちた世に「派遣」されるための平安である。この「遣わす」という言葉はヨハネ福音書のキーワードである。たとえば「愛する」は16回だが、「遣わす」はその3倍も繰り返されている。イエス様は「父がわたしを遣わしたように、私もあなたがたを遣わします」と言われた。(「遣わす」:動詞はギリシャ語でアポストローで、使徒はアポストロス“遣わされた者”)イエス様を信じるとは、イエス様が父なる神から遣わされたことを信じることを意味する。御子を御父との三位一体の関係で理解するのが信仰の核心。 <br />主が、あなたを世に遣わされるのは、世の人々が、あなたを通してイエス様を信じるようになるため。<br /><br />結 論: 聖霊を受けなさい 〜勝利と祝福の秘訣〜 (21〜23節)<br /><br /> 主は、息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」(22節)と言われた。「土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。」(創世記2:7)創造の御業を想起させる。 <br />弟子たちは、今、聖霊様によって新しく生まれ、再創造された。そしてこの世界で主の代理としての使命を果たすために派遣される。イエス様が「わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます」(14:12)と言われた約束がこうして成就する。<br />しかも、主は「あなたがたを」と複数形で語り、ご自身の息を、ひとりひとりにではなく、弟子の集団(教会)に、吹きかけられた。私たちはひとりで世に遣わされるのではなく、教会の交わりに生きる者としてこの世界に遣わされる。その上で「あなたがたがだれかの罪を赦すなら」(23節)と、教会に罪の赦しの権威を与えられた。「教会の外に救いはない」と言われるように、イエス様は、教会を、この世界で唯一の神の代理として立てられた。神は、罪に満ちた世を愛するために、御子を世に遣わされた。そしてイエス様が私たちに「平安・平和」を与えて、この地に遣わされるのは、罪に満ちたこの世界に、神の和解と平和を実現するためである。 <br /> <br />例話: <イエスに遣わされた者の祈り>(神の愛の宣教者会/マザーテレサの創立の祈り)<br /><br />『 イエス様 私たちがどこに行こうとも、あなたの香を広めることができるよう、助けてください。私たちのたましいをあなたの御霊といのちであふれさせてください。あなたご自身が、私たちを通して輝き、私たちに触れるすべての魂が、私たちの心の中に、あなたの存在を感じることができますように。 人々が、私たちではなく、イエス様、あなただけを見ますように! 光は、すべて、あなたから来るものです。 私たちを通して他の人を照らしているその光は、あなたご自身に違いありません。あなたが最も愛するその方法で、あなたをたたえさせてください。ことばよりは行ないで、あなたのことを伝えられますように。 私たちの行ないを喜ぶ人々によって、励まされた私たちの心が、ただ、あなたのところに導かれますように。“ <br /><br /> 私たちも、このように祈り、ここから遣わされて行きましょう! <br /><br />主よ感謝します。jraynoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-77172528305914949392008-04-23T09:51:00.006+09:002008-07-17T13:38:50.072+09:00復活の主を見る信仰2008年4月13日<br />聖書:ヨハネの福音書20章11〜18節<br />説教:滝田新二牧師<br /><br />序. イースターの出来事の後に人生を変えられた人がいる。墓の前で、ただ泣いていた涙の人生から喜びの人生に変えられたマグダラのマリヤの信仰から、復活の主を見る信仰について御言葉を受ける。<br /><br />1 . 主のそばに居続けるマリヤ<br /><br /> マグダラのマリヤは、いつも主のそばに居続けた。十字架の時も、復活の朝も、真っ先に駆けつけたのは彼女であった。(ヨハネ19:25・20:1)墓の中に主イエス様の遺体がない事が分かった時、マリヤは天使に向かって「私たちの主」(複数形)ではなく、「私の主」(単数形)としっかりと主と結びついている。弟子たちがユダヤ人を恐れ、逃げた時、マリヤは堂々と、墓の管理人に「私の主を返してください!」「私が遺体を引き取ります」と断言している。マグダラのマリヤにとってイエス様は「私の主」であり、自分の命ほどに大切なお方、大事な存在であった。主のそばに居続ける事が祝福となる。<br /><br />2. 主を求め続けるマリヤ<br /><br /> マリアは、ただ一人墓の前に立って泣いていた。深い失望、絶望がマリヤを支配していた。彼女は全く希望のない、死んでしまった主イエス様の遺体しか求めていない不信仰な状態であった。 私たちの信仰生活はどうか? 希望がなく泣いていることはないだろうか?それは死んでしまった主を求めることなのである。しかし、マグダラのマリヤは、主を追い続ける。執着し続ける。泣きながら主イエス様を探し求め続ける。このようなマリヤに主が現れて下さった。16節『イエスは彼女に言われた。マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)」とイエス様に言った。』 主は、マリヤがこれほど熱い思いで主を求めている、ただ主だけを捜している、その気持ちを喜ばれ、たった一言、その名を呼ばれた。これほど心を揺すぶる会話はない。主を求め続ける事が祝福となる。<br /><br />結論: 「私は主にお目にかかりました」 〜復活の主を見る信仰〜<br /><br />① 目線を変えること。(14節) ライフサイクルからソウルサイクルに目線を変える。マリヤには主がわからなかった。イエス様の呼びかけを聞いて、マリヤは分かった。私たちは礼拝やデボーションを通して、主の御言葉を聞いて、主を知らされる。だから、礼拝を大切にしよう。 <br /><br />② 聞くという姿勢を通して、心の向きを変えこと。 (20:14・16)「彼女は振り向いて」これは体を向けるだけではなく、自分の心の向きを変えること。実は御言葉を聞くということである。コロサイ3:10「あたら人を着たのです。ますます新しく(毎日と訳される)毎日、ということで、量的なことではなく、時間的な継続の事である。日々新たにされて、あなたは主の似姿に変えられる。コロサイ3:16「詩(詩篇)と賛美と霊の歌を」繰り返し、繰り返し、心に刻むことで日々、「主よ、感謝します」と目線を変え、ライフサイクルからソウルサイクに目線を変えること、自分はキリスト者であること、自分のアイデンティティ、自分は本当は神の子どもであるという自覚を持つ事である。 あなたも、マグダラのマリヤのように18節「私は主にお目にかかりました。」と告白できる者へと変えられ、新しい使命(証と宣教と兄弟姉妹の励まし)に、主はあなたを派遣される。(17節)<br /><br />*例話: マザーテレサは、「傷つくまで愛し続けなさい」と語っている。 <br /><br />詩: <しあわせ>『私たちは、みな、しあわせ になるために、生まれてきました。そして、神(イエス)を愛するようになったときにだけ、ほんとうの しあわせ と やすらぎ を見いだすことができます。イエスを 愛することで、喜びを感じ、大きな しあわせ を 感じるのです。<br /><br />イエス様!私をお救いください。愛されたいという欲望から <br /><br />ほめられたいという欲望から <br /><br />名誉を得たいという欲望から賞賛されたいという欲望から <br /><br />人よりも好かれたいという欲望から <br /><br />相談されたいという欲望からよく思われたいという欲望から <br /><br />人気を得たいという欲望から <br /><br />屈辱を受けるという恐れから軽蔑されるという恐れから <br /><br />非難されるという恐れから <br /><br />中傷されるという恐れから忘れ去られるという恐れから <br /><br />ひどい扱いを受けるという恐れから <br /><br />嘲笑されるという恐れから疑われるという恐れから 』 (マザーテレサ) <br /><br />主よ、感謝します。jraynoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-40711133014438433082008-03-27T15:55:00.003+09:002008-07-04T12:59:16.460+09:00キリストの復活 <span style="color:#ffcc33;">~主は今生きておられる~</span><br /><br />2008年3月23日 イースター・新会堂礼拝開始<br />聖書:マルコの福音書16章1〜8節<br />説教:滝田新二牧師<br /> <br />1.さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。2.そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。3.彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。」とみなで話し合っていた。4.ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。5.それで、墓の中にはいったところ、真白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。彼女たちは驚いた。6.青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。7.ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。』とそう言いなさい。」8.女たちは、墓を出て、そこから逃げ去った。すっかり震え上がって、気も転倒していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。<br /><br />序. イースターおめでとうございます。新会堂礼拝開始を共に喜び、主に感謝しましょう! 主イエス様が十字架に架けられ、墓の中に納められた。その墓の入り口は大きな石で閉じられたが、 復活の朝、その石が転がされた。その意味と復活のメッセージとは何か?<br /><br />1. 石は転がされていた (16:1〜4)<br /> 日曜の早朝、墓の入り口の石が転がされていた。 大きな石(死の象徴)を転がしたのは誰か?死と生とを支配しておられる主である。死の問題に真の解決を与えることができるのは人間ではない、主だけである。主は、私たちの生活の中の石のような困難な現実を転がして、解放し、道を開き、祝福が注がれる。新会堂建築に立ちはだかる数々の困難な石が、全て主によって転がされた。 イースターの朝、墓の口を開き、永遠のいのちと希望の光が射し込んだ。<br /><br />2. 十字架にかけられ、復活された主(16:5〜8)<br /> この復活の出来事において、私たちは、死を打ち破ることのできる命の神、生けるまことの神に出会うのである。ではなぜ、イエス様の復活、イースターは喜びの日なのか? 主の復活後、最初に与えられた6節の天使のメッセージにもう一度耳を傾けよう。 大切なことは、ただ「死んでしまったイエスが復活させられた」と告げられたのではなく「十字架につけられたナザレのイエスが復活させられた」と告げていることである。復活という神の決定的な神の御業は、十字架にかけられた方の復活として現された。ここに大きな意味がある。復活は十字架と結び付けられている。主イエス様はご自分の命をもって私たちの罪を贖うために十字架へと向かわれた。あなたのために、罪の贖いの十字架がこの地上に立てられた。だから、復活された主を仰ぐ時、私たちの希望となるのである。<br /><br />3. ガリラヤへ行け 〜新しい使命に生きる〜 (7節)<br /> 御使いは、ガリラヤで再び主にお会いすることができると告げられた。ペテロは、主を裏切った。その主を裏切り、罪を犯した人生の失敗者、落伍者、挫折を経験した者にも知らせてあげなさい、と御使いは語る。主は、私たちを再び主と共に生かそうとしておられる。 主が先にガリラヤに行っておられる。ガリラヤとは、弟子たちが主と最初に出会った場所、「わたしについて来なさい」という主の御声を聞いた場所である。私たちも罪と死から解放され、主と共にやり直すことが許されている。あなたも「わたしについて来なさい」という主の御声を聞くことができる。<br /><br />結 論: 『 ハレルヤ! 主は今生きておられる 』<br /><br /> 今朝、私たちにも復活の希望のメッセージが届けられている。「ペテロにも告げなさい」と言われたお方は、あなたにも呼びかけておられる。復活のメッセージを伝えられた私たちは、もはや死によって閉ざされた者、困難や絶望の石に閉じこめられた者として生きる必要はない。主は私たちをも、キリストの十字架と復活の出来事を通し、罪と死から解放された者、キリストと共に生きる者として下さった。 主は私たちを再びガリラヤへと導かれる。そこで、あなたも「わたしについて来なさい」という復活の主イエス様の招きの言葉を再び聞くことが許されている。そして主は今生きておられる。<br /> マルコ 16:15-17 『それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」 <br /> 例話:ミャンマーの死から生き返った僧侶(ヤテイ・ファン・シンタウ・パウロ)の証 <br />イースターは、私たちにとって、復活の主に出会い、新しい使命に生きることを決断する時に他ならない。 復活の勝利の主と共に、今日からスタートした新会堂で、新たな信仰生活と宣教とキリストの体である教会形成に励もう! <br />主よ感謝します。jraynoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-20095259365190896262008-03-27T15:52:00.004+09:002008-07-04T13:00:04.573+09:00主が、お入り用なのです<span style="color:#ffcc33;">~子ロバに乗られた主イエス様~</span><br /><br />2008年3月16日<br />聖書:マルコ11章1‐11節<br />説教:滝田新二牧師<br /><br />1.さて、彼らがエルサレムの近くに来て、オリーブ山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づい たとき、イエスはふたりの弟子を使いに出して、2.言われた。「向こうの村へ行きなさい。村にはいるとすぐ、まだだれも乗ったことのない、 ろばの子が、つないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。3.もし、『なぜそんなことをするのか。』と言う人があったら、『主がお入用なのです。すぐ に、またここに送り返されます。』と言いなさい。」4.そこで、出かけて見ると、表通りにある家の戸口に、ろばの子が一匹つないであったので、 それをほどいた。5.すると、そこに立っていた何人かが言った。「ろばの子をほどいたりして、どうするのです か。」6.弟子たちが、イエスの言われたとおりを話すと、彼らは許してくれた。7.そこで、ろばの子をイエスのところへ引いて行って、自分たちの上着をその上に掛けた。イ エスはそれに乗られた。8.すると、多くの人が、自分たちの上着を道に敷き、またほかの人々は、木の葉を枝ごと野原 から切って来て、道に敷いた。9.そして、前を行く者も、あとに従う者も、叫んでいた。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によ って来られる方に。10.祝福あれ。いま来た、われらの父ダビデの国に。ホサナ。いと高き所に。」11.こうして、イエスはエルサレムに着き、宮にはいられた。そして、すべてを見て回った後、 時間ももうおそかったので、十二弟子といっしょにベタニヤに出て行かれた。<br /><br />序. 過越祭が近づき、主イエス様も弟子たちと共に群衆の中をエルサレムに向かわれた。主イエス様の様子はいつもと違っていた。その御顔には、ただならぬ決意が表れていた。皆は、ただ恐れを覚えるばかりであった。主はご自分の受難について語る。(10:32-34)主イエス様は、十字架へと向かうために、子ロバに乗られた。 私たちは、この受難週にあたり、その意味を、今一度深く考えたい。<br /><br />1. 主がお入り用なのです (マルコ11:1〜6)<br /><br /> ここには奇妙なアンバランスがある。「主がお入り用なのです」と主は王として振舞われる。一方、王がお入り用であったのは、何とまだ誰も乗ったことのない借り物の子ロバであった。この奇妙なアンバランスこそ、かつて預言者が語った御言葉の実現に他ならない。(ゼカリヤ書9・9)「柔和」という言葉は、「貧しい」と言う意味で、富んだ者たち、傲慢な者たちに苦しめられる貧しい者の惨めさを表す。さらに「惨めな」「みすぼらしい」とも訳せるような言葉。それが来るべき王の姿であるとゼカリヤは預言している。 真の王の王、主の主、神の御子は、実に貧しき姿でエルサレムに向かわれた。この醜いお姿こそ、十字架における最も惨めな死に様へと向かう苦難のしもべの姿である。(参照イザヤ53章)預言の成就である。 ここに父の御心があった。イエス様は父なる神への愛のゆえに、その御心に従順に従おうとしておられた。<br /><br />2. 歓呼の叫びの中をエルサレムに向かう (マルコ11:7〜11)<br /><br /> 十字架へと向かうイエス様の御心を知らない群衆は、あたかも王の即位を祝うかのように、自分の服を道に敷き、棕櫚(シュロ)の葉の枝を道に敷いた。そして熱狂的に歓呼の声を上げながらイエス様を迎えた。 当時のイスラエルはローマの支配下にあり、多くの人々はローマからの解放を待ち望んでいた。かつてエジプトにいた先祖たちがモーセによって奴隷の地から解放された過越祭と重なっていた。力強い王なるメシヤ(救い主)が現れて、ローマ帝国を打ち倒し、彼らを解放してくれる日が来ることを待ち望んでいた。 「ホサナ」とは「お救いください」という意味である。彼らはそのように叫んで、主を迎えた。人々は、貧困や病からの救いを叫び求める。私たちは、苦しみや試練から解放されれば救われると考える。しかし、現実はどうか? 一つの苦しみから逃れれば、他の苦しみがそこにある。一つの支配を脱すれば、他の力の支配の下にある自分を見出す。苦難から逃れることが救いなら、人は決して救われることはない。たとえこの世の抑圧から解放されたとしても、罪の支配から解放されない限り、人は本当には救われないのである。<br /><br />結論: 『主が、あなたをお入り用なのです』 <br /><br />イエス様は、人々の歓呼の叫びが、まもなく「十字架につけろ!」という呪いの叫びに変わることを知っておられた。人の罪は、闇を愛して光を憎む。そして自分の欲望を求め、神の御心に逆らう。人間の内に潜む恐るべきエゴ(罪)は、神の子さえ十字架にかけて殺してしまう。そのような弱さと罪の支配から私たちを救うためにこそ、主は来られた。(参照:マルコ10:45)イエス様はあなたを愛するゆえに、そしてあなたを救うために十字架の道(ドロローサ=悲しみの道)』をあえて進まれた。主は死刑を宣告され、侮辱され、唾をかけられ、鞭打たれ、殺されるために、人々の歓呼の声がこだまする中を進まれた。こうしてエルサレムへと向われた主の内に燃えていた父への愛、そして私たちへの愛を、深く想い巡らしたい。そして主に従うとは何か? 主のために、教会のために、隣人のために、自分は何をすべきか? を問いつつこの週を祈りつつ過ごそう。 <br />主よ、感謝します。<br /><br />●今日から曜日ごとに神の御言葉を読み、静かに主の御苦しみを黙想し、祈りつつイースターを迎えよう。<br />▼16日(日)主のエルサレム入城・ベタニヤ泊。(ヨハネ12:12〜19、マタイ21:1〜17)<br />▼17日(月)ベタニヤ発・いちちじくの木呪う、神殿宮きよめ。(マタイ21:18〜22、マルコ11:12〜19)<br />▼18日(火)いちちじくの木枯れる、宮で最後の説教(権威論争・悪い農夫の譬え話・王子の結婚披露宴の譬え話・カエサルへの納税論争・復活論争・一番大切な戒め・ダビデの子論争)やもめの献金、終末の教え。(マルコ11:20〜13:37、マタイ21:23〜25:46、ルカ20:1〜21:38)<br />▼19日(水)イエスの殺害の陰謀とユダの裏切り(マタイ26:14〜16、マルコ14:1〜11)<br />▼20日(木)過越しの準備を命じる。最後の晩餐ゲッセマネの祈り。イエスの逮捕。カヤパの官邸。 (マタイ26:17〜75、マルコ14:12〜72、ルカ22:7〜65、ヨハネ13章〜18章)<br />▼21日(金)ピラトがイエスを十字架につける。主イエス葬られる。(マタイ27章、マルコ15章、ルカ22:66〜23:55、ヨハネ19章) <br />▼22日(土)安息日(ルカ23:56)<br />▼23日(日)ハレルヤ! 主は復活された。(マタイ28章、マルコ16章、ルカ24章、ヨハネ20章)<br />主よ、感謝します。jraynoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-19218209494651678392008-03-27T15:45:00.003+09:002008-07-04T13:01:00.604+09:00花婿を迎える10人の娘<span style="color:#ffcc33;">~主の再臨を待ち望む賢い人と愚かな人~</span><br /><br />2008年3月9日<br />聖書:マタイの福音書25章1〜13節 <br />説教:滝田新二牧師<br /><br />1.そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人 の娘のようです。<br />2.そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。<br />3.愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。<br />4.賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。<br />5.花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。<br />6.ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。<br />7.娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。<br />8.ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私た ちのともしびは消えそうです。』<br />9.しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足 りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』<br />10.そこで、買いに行くと、 その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっし ょに婚礼の祝宴に行き、戸が しめられた。<br />11.そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言 った。<br />12.しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。<br />13.だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。<br /><br />序. 当時の「結婚」には3つの段階があった。①親が子どもの結婚の約束を取り交わす。②夫婦の契約(婚約であるが法的には結婚) ③婚約から1年後に夫婦として生活を始める。<br />今日の「たとえ話」の花婿は、イエス様ご自身。10人の花嫁の友人(娘)は私たちである。<br /><br />1. 賢い娘と愚かな娘との「類似点」は何か?<br /><br />① 両者ともに、花婿が来るのを待ち望んでいた。(1節)<br /> 10人の娘たちは、皆、信仰のともしびを持っていた。<br /><br />② 両者共に、同じような弱さを持っていた。(5節)<br /><br />③ 両者共に、花婿が来る直前に呼び起こされた。(6〜7節)<br /> 眠っている娘たちが目を覚ますために、声をかけられたのは主の憐れみではないか。<br />「しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のよう にあなたがたを襲うことはありません。 」 (第一テサロニケ人への手紙 5:4)<br /> <br />2. 賢い娘と愚かな娘との「相違点」は何か?<br /><br />① 5人は賢く、他の5人は愚かであった。 (2節)<br />「そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。」(エペソ5:15-16)<br />あなたの霊的な生活に弛(ゆる)みが生じ、怠慢に陥っていることはないだろうか?<br />自分自身の信仰生活をチェックしよう。では一体何が賢さなのか?それは油を持っていること。<br />パウロは、第1テサロニケ5:19「御霊を消してはなりません。」と御霊に満たされることが大切と語る。<br /><br />② いつも目の前、目先の楽しみや出来事に心を遣い、将来に備えていない。(3〜4・8節)<br />愚かな娘たちも灯火は持っていた。問題は、いざ花婿が来た時には油がなかった。今まで持っていたものが、肝心の本番の時には全く役に立たない。本番でその真価が問われる。 (例話:大島の大爆発)<br /><br />③ 愚かな娘は「ともしび」だけ。賢い娘は「ともしび」と「入れ物に油を入れて」いた。(3〜4節)<br />「入れ物」は、私たちの霊と心(精神)と体のすべての総和である私たちの全人格を指している。聖書では、油は、聖霊様を象徴して用いられている。クリスチャンの生涯は、聖霊様に満たされ、潔められ、心と生活のすべてを神の愛に支配していただく必要があることを教えている。(参照:使徒19:2) <br /> <br />結 論:『花婿(主の再臨)が来てからでは遅すぎる』 (9−13節)<br /><br />① 今、イエス様を信じ、受け入れる。<br /> 花婿が来てからでは遅すぎる。死ぬ間際に信じるからという人がいるが、救いを予約することはできない。門が開かれているうちに入らなければならない。そして、神の国への扉は一たん閉じられたら,開くことはあり得ないのだから。聖書は「今は救いの時」と教えている。人生の途中で燃料が切れてしまった、「ガス切れ」ということがないように心を用いよう!<br /><br />② 主の主権を認める。<br /> 賢い娘たちは主の主権を認めている。現代は、自分のスケジュールを絶えず優先させる時代である。相手のスケジュールのために自分のスケジュールを捨てることはあまりない。主との関係はどうか?<br />自分の祈りが聞かれないとイライラし、待ち望んでも、なかなか得られないと、不信仰になったりしないだろうか? 何事にも主の時がある。神の主権による。(信仰の人アブラハムは待ち望み祝福された)<br /><br />③ 聖霊様に満たされなさい。 <br />(エペソ 5:18)「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」 用意の出来ていた賢い娘のように、私たちも、今、聖霊様によってきよめられ、満たされよう。(例話:ご主人様を待ち続けた忠犬ハチ公) 私たちも主への愛を持って、主の再臨を待ち望もう。 あなたも、主の愛と御霊様に満たされて、主を愛し、隣人(家族や友達)を愛し、仕え、歩もう! <br />主よ、感謝します。jraynoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-81169584153717599962008-02-12T11:48:00.001+09:002008-07-04T13:02:17.385+09:00再臨を待ち望むクリスチャンの生き方<span style="color:#ffcc33;">~賢いしもべと愚かなしもべ~</span><br /><br />2008年2月10日<br />聖書:マタイの福音書24章45節〜51節<br />説教:滝田新二牧師<br /><br />45.主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。46.主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。47.まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。48.ところが、それが悪いしもべで、『主人はまだまだ帰るまい。』と心の中で思い、49.その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めていると、 50.そのしもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。51.そして、彼をきびしく罰して、その報いを偽善者たちと同じにするに違いありません。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。 <br /><br />1. 私たちは主のしもべである。 (45節)<br /><br /> 私たち人間はしもべで、神が主人なのである。創造の初めにアダムとエバが神に造られた時、人間にとって、神が主である事を忘れないために、エデンの園に、いのちの木と善悪の知識の木を置かれた。主に従順するために、その善悪の知識の木を食べてはいけないという命令を与えられた。しかし、主を主とする事をやめて、サタンに従うように誘惑を受けた。ついに人は主である神に背き、人は主を主としない罪、神を神としない罪を犯し続けて来た。これが原罪である。神への不従順、自己中心が人間の原罪である。 この罪を悔い改めて、主イエス様の十字架による身代わりの死と復活により、罪の赦しと救いを受けた私たちクリスチャンは、あらためてイエス様を主とする者に変えられた。しかし、罪の性質を残している私たちは主を主としない罪を犯す危険がいつもある。 私たちは、主に仕えるしもべであって、主が私たちのしもべではない。<br /><br />2. 主のしもべには使命がある。 (創世記 1:26 マルコ 16:15)<br /><br />① 文化命令(世界管理の使命=キリスト者の社会的責任) 創世記 1:26『そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。』 私たちは労働を通して、この使命にあずかる。そこで主の栄光を現す。<br /><br />② 世界宣教命令(福音宣教の使命) マルコ 16:15『それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。』 私たちは、家庭や学校、職場で、イエス様の愛と救いを証する。 そして、教会は、この地域(さいたま)と全世界に向かって、福音宣教の使命を委託されている。 <br /><br />◎片柳教会のビジョン<br /> 《キリストの愛に変えられ、神の目的のために生かされる人生》 <br />〜地域に開かれた、誰でも安心できる教会を目指して〜 <br /><br />私たちは、“人々をキリストの救いと安息に導き、人々の人生がキリストの愛に変えられた人生となり、神の家族(礼拝の民)のメンバーとなり、キリストの御丈にまで成長し、神に祈り、教会の奉仕のために整えられ、この地域と世界の宣教に仕え、主の御名が讃えられることをめざす。”<br /><br />3. 愚かなしもべ (48〜51節)<br /><br /> 愚かなしもべとは? 全く主人の期待と正反対に、管理し世話すべきものを支配する者である。いつしか自分を主として、富も、仕事も、家族も、教会の兄姉も、主から委ねられていることを忘れている。次に「酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めている」これはクリスチャンに対する世俗化の警告である。 この世と同じ価値観、同じ生き方をすれば、聖霊様を悲しませることになる。(2ペテロ3:3-14)<br /><br />結 論: 私たちは「賢いしもべ」となる (45〜47節)<br /><br />① 主人に委ねられるしもべとなる。<br /><br /> 主人にとって最も信頼のできるしもべとは? たとえ主人がいなくても、委ねられるしもべである。主は、あなたに働きを委ねて、目には見えない形で私たちと共にいてくださる。私たちの全てを見ておられる。主人が共にいるかのように、日々仕えるしもべは、主人が帰って来たときに、誉められる。<br /><br />② 主に従うしもべとなる。<br /><br />私たちの主人である神の語られた通りに従うしもべは幸いである。主と主の器に従順なしもべとなる。<br /><br />③ 主に祝福されるしもべとなる。 〜主人の全財産を委ねられる(47節)〜<br /><br />・エジプトの王パロの総理大臣となったヨセフ。(創世記41:38-43) ・ バビロン帝国でネブカデネザル王の長官となったダニエル。(ダニエル2:4-6)<br /><br />例話:フランクリン・ルーズベルトは、小児麻痺の障害者からアメリカの第32代の大統領となった。<br />主は、あなたに使命を与え、賢いしもべとなり、主の大いなる祝福を与えてくださる。 <br /><br />主よ感謝しますjraynoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-31595180407238279232008-01-21T21:07:00.001+09:002008-07-04T13:02:53.758+09:00人は変えられるか?2008年1月20日<br />聖書:エペソ人への手紙4章17-32節<br />説教:柳神学生<br /><br />序論 <br />今日の主題は、「人は変えられるか?」とういことであります。新年度に入って、初めてのメッセージーなので、何を話せばいいのかと祈っていましたが、ちょうど、先週の日曜日のときに、与えられました。実際この主題は、新年度に入ってから私が一番思わされていたことです。自分自身が本当に変わらなければならないと思っています。今のままでとまっているのではなく、もっと成長したいです。かしらなるキリストに達することができるためにもっと祈り、求めていきたいです。<br /><br />皆さん!私たちが変えられる必要があると思うでしょうか?<br /><br />Ⅱコリント5章17節「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、身よ、すべてが新しくなりました。」<br />私たちはもうすでにイエス・キリストを信じることによって新しく生まれました(新しく変えられました、新しく造られました)。<br />イエス・キリストは私たちを変わらせるために、苦難を受け、十字架につけられ、死なれました。キリスト教の福音は、変化についての知らせであります。すなわち、イエス・キリストによって新しく生まれるという本質的な変化と、聖化していく漸次的な変化についての知らせであります。ですから、私たちはキリストによって新しく造られた者としてそれにふさわしい生活をしなければならないのです(それにふさわしく変えなければなりません)。<br /><br />それでは、皆さん!本当に人は、変えられるでしょうか?人の心や品性などが変えられると思うでしょうか?ある人々は人が変わることは難しいことであると、無理であると、できないことであると言います。(例、父と言い争った話)<br />人の性格、気性、習慣、品性、行動などが変わることは本当に難しいことであります。いや、不可能であるかのように思わされています。本当にそうだと思います。<br /><br />しかし、聖書はいたずらのように絶えず私たちが変わることを強く勧めているのです。今日の箇所の31、32節「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」<br />なぜ聖書は私たちが変わること(難しいこと、不可能であるかもしれないこと)を強く勧めている(勧告している)でしょうか?それは、人が変わるかどうか(変化、聖化)によって、祝福かそれともわざわいかということに直接つながっているからです。後で説明します。<br /><br />皆さん!もう一度質問します。本当に人は変えられるでしょうか?人が変わることができるでしょうか?もし変わることができるのであれば、どうやってできるのでしょうか?<br /><br />結論を先に言いますと、人は変えられます!どうやって変わるかをこれから見ていきましょう。<br /><br />本論<br />1.信仰によってであります。信仰は変えられることを信じることであります。<br /> 牧師先生や聖徒たちの中で“人は変えられない”、“あの人の性格(気性)は変わらない!絶対に変わらない!”と言う人々もいます。皆さんはどうでしょうか?このように言ったことがないでしょうか?私はあります。“あの人はだめだな。あの人は本当に変わらないよ!”と言ったことがあります。<br />もしかしてキリスト者である私たちがこのように言うならば、私たちはイエス・キリストを間違って信じているかもしれません。なぜなら、イエスを信じるということは変わるということであるからです。ただ信じれば天国に行けると思うでしょうか?私たちはイエスのように変わらなければなりません。エペソ4章15節「むしろ、愛を持って真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。」<br />聖書は、人が自らの力で変わるのではなく、イエス・キリストの力を通して変わると言っていますし、変わることを強く勧めています。<br />イエスを信じるということは、イエスが私に知恵と力を与えられ、私を古い人から新しい人(古い気性から新しい気性に、今まで持っていた品性から新しい品性に)に変えられるということを信じることであります。これがまさにイエスを‘私を罪(わざわい、呪い)から救ってくださった救い主’として信じるということであります。<br /><br />民数記13,14章のカナンに遣わされた12名の話し。<br /> 私たちがよく知っている箇所です。13章では、モーセは神様から命じられたように12名を選び、カナンの地を探らせます。カナンの地を探って、帰ってきた12名の報告が13章の後半に書いてありますが、12人のうちに二人(エフネの子カレブとヌンの子ヨシュア)を除いて、10人が“私たちはカナンに入れない”と、“カナンの民族に絶対勝てない”“自分がイナゴのように見えた”と報告します。<br /> 人は変えられませんと、 罪悪の古い人(気性、習慣、性格、品性、行動など)は変えられませんと言う人は、まさに罪悪の象徴であるカナンの民族をイスラエルは勝てないと言っている10人の同じ信仰です。このように言うということは、実際にイエスを信じてないこと(不信仰であること)を明らかにしているのです。<br /><br /> 荒野のイスラエル民族がカナンの民族に弱かったように、私たちは罪に弱いため、さらに変わることは難しいと、できないと思ってしまうのです。しかし、結局イスラエル民族が信仰を持ってカナンの地を一つ一つ占領して行ったように、信仰を持って、イエスの知恵と力に頼って大胆に行けば、私たちは変わることができるのです。私たちは変えられます。放棄しないでください!私たちは必ず変えられます。信仰を持ってください!<br /> カレブとヨシュアは最後まで信仰を持っていたため、天国の象徴であるカナンの地に入りました。ですから、信仰を持たないと、放棄すると、変わることできませんし、カナンの地に入れません。<br /> 私たちは今すぐできなくてもイエス・キリストによって必ず変えられますと告白し、絶えず追求しなければなりません。これが信仰であり、望みであります。<br /><br /> 2.自らの意志と神様の助けがなければなりません。<br /> 変化するためには、かならず二つの要素がなければなりません。一つは、変化しようとする自らの意志であります。もう一つは、神様の助けを求めることであります。<br />ピリピ4章13節「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」<br />変わろうとしない、あるいは神様の助けを認めない、求めない人は、神様のみことばによって絶対に変わることができませんし、どうしようもないです。すなわち、変わろうとしても神様の助けがなくてはできませんし、いくら神様が助けようとなさっても本人が変わろうとしなければ絶対できないのです。自ら変わろうとしない人より問題がある人はいません。<br />しかし、哀れみ深い神様はこのような人のためにも、実際、本人が自ら変わろうと決断するように働いてくださいます。すなわち、変わろうとしない人には、神様のみこころの通りに変えられるため、いろんな苦労や試練を用いて働いてくださるのです。<br />神様が私たちを絶えず赦してくださる理由は、私たちが変わることを期待しておられるからです。神様の慈悲は、私たちが罪に負けることに対しての認定ではありません。私たちが変わることに対する期待であるのです。<br />変わろうとする自らの意志を持ち、神様の助けを求めて幸せな人生を過ごしましょう。<br /><br />結論<br /> 聖書は絶えず変化しなさいと語っていますし、変わらなければわざわいがあると語っています。また変わらないでそのままとまっていても神様は喜ばれません。<br /> ルカ13章1-9節<br />ヘブル6章7、8節「土地は、その上にしばしば降る雨を吸い込んで、これを耕す人たちのために有用な作物を生じるなら、神の祝福にあずかります。しかし、いばらやあざみなどを生えさせるなら、無用なものであって、やがてのろいを受け、ついには 焼かれてしまいます。」<br />本人の間違えている信仰生活(気性、習慣、性格、品性など)が変わらなければなりません。私たちは恵まれた時代に過ごしています。聖書も自由に読めるし、毎週の日曜日の礼拝、水曜祈祷会、聖書勉強会などを通して神様のすばらしいみことばを聴いています。<br />皆さん!どうでしょうか?そのすばらしいみことばによって、皆さんは成長しているでしょうか?<br />もしかして、そのすばらしいみことばを聴いて、家に帰ったときは、もうすでに全部忘れてしまい、古い人にまた戻って、前と同じように生活している(信じていない人の生活と同じ生活をしている)のではないしょうか?<br />私たちは今一度自分を省みなければなりません。だれだれが変わればいいなとか(家族、友たち、兄弟姉妹たちなど)を全部切り捨てて、まず自分から変わるようにしなければなりません。(例、父と言い争った話)私は本当に変わりたいです。教会のかしらなるイエス・キリストに達するまで成長したいです。皆さん!変えましょう!私と皆さんが本当に変われば、私と皆さんの家族、友たち、学校、会社、教会が変わります。アブラハムを通して全世界が祝福されたように、私たちの信仰を通して、各自つながっているすべてが祝福されるのです。カレブとヨシュアのように、最後まで信仰を強く握り、絶えず神様の助けを求めて、私と皆さんに約束された地を占領し、幸せな人生を過ごしましょう!jraynoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-21132095.post-11300472638805947602008-01-15T21:11:00.001+09:002008-07-04T13:03:39.919+09:00主キリストだけを仰ぎ見る<span style="color:#ffcc33;">〜主の祝福を受ける秘訣③〜</span><br /><br />2008年1月13日<br />聖書:マタイによる福音書14章22〜33節<br />説教:滝田新二牧師<br /><br />22.それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行 かせ、その間に群衆を帰してしまわれた。<br />23.群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、 ひとりでおられた。<br />24.しかし、舟は、陸からもう何キロメートルも離れていたが、風が向かい風なので、波に悩 まされていた。<br />25.すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。<br />26.弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ。」と言って、 おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。<br />27.しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることは ない。」と言われた。<br />28.すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いて ここまで来い、とお命じになってください。」<br />29.イエスは「来なさい。」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエ スのほうに行った。<br />30.ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」 と言った。<br />31.そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。な ぜ疑うのか。」<br />32.そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。<br />33.そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、「確かにあなたは神の子です。」と言 った。<br /><br />序. 新年にあたり、主の祝福を受ける秘訣を、イエス様の模範からみことばを受けます。 <br /> 先週は、主の祝福を受ける秘訣は、 私たちが主を第一として、<br />①礼拝を聖別し、②信仰の応答としての十一献金をささげ、<br />③デボーションで主との祈りの交わりから一日をスタートして、歩むことです。でした。<br /> <br />1. 私たちの信仰のテスト (14:22〜26)<br /><br /> 私たちの人生には、人の力ではどうすることもできない逆風や嵐が襲って来る。どんなに大きな家に住んでいても、どんなにがっちりした4輪駆動の車に乗っていても、決して避けることのできない、さまざまな人生の波風が起こり、迫ってくる。ここで、弟子たちが経験した嵐にはもっと複雑な意味がある。<br /> なぜか?彼らは自分勝手に湖に漕ぎ出したのではなく、イエス様に無理に「強いて」舟に乗り込まされたのだ。主の言葉に従った結果、逆風にあって、波に悩まされた。弟子の気持ちは複雑だったに違いない。 あなたはどうか? 思うようにならない問題が起こると誰かのせいにしたくなる。弟子たちの心には、主に対する、苦い思いが起こっていたかも知れない。私たちの信仰は、主にテストされ、訓練される。<br /> それはあなたの霊的成長のためである。主は愛する者を訓練される。主に訓練される時、落ち込んではならない。<br /><br />ヘブル 12:7「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。」<br /><br />イエス様が見えなくなる。弟子たちは、夜中に湖の上を歩いて来られる主の姿を見て幽霊だと思った。あなたも、主に対して反発の思い、にがい思いが心を占めていると、主イエス様が見えなくなる。そばに来られても恐れてしまうのである。<br /><br />2. 主イエス様との出会いの信仰 (14:27〜33)<br /><br /> 信仰が試され、悩みや苦しみに遭う時ほど、主は、あなたのそば近づいておられる。今日も人生の様々な苦しみや問題のただ中で、多くの人が主イエス様に出会い触れられる。<br /><br /> 主の御言葉に従って、その結果、辛く、苦しい思いをした人は見捨てられていない。必ず主は、あなたのそばに近づいて来られ、励ましを与え、勇気を与えられる。ペテロは「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じ下さい」と言った。 <br />主と出会い、私たちの信仰は、さらに深く御言葉に従う信仰へと導かれる。<br /><br />結論: 奇跡(祝福)を経験する信仰とは?<br /><br />① 主イエス様の御言葉をいだだく。(28節)<br /><br />28.すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いて ここまで来い、とお命じになってください。」<br /> ペテロは自分も水の上を歩きたいと願い、まず主イエス様の御言葉を求めた。主の祝福を受ける秘訣は、御言葉を求める信仰である。<br /><br />② 受けた御言葉をそのまま信じて、行動に移す。(29節)<br /><br />29.イエスは「来なさい。」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエ スのほうに行った。<br /><br /> 主は「来なさい。」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエス様の方に行った。御言葉を頂いても、信じて行動に移さなければ何も起こらない。行動にはリスクが伴う。それが信仰である。ペテロは信仰によって、世界で始めて湖の上を歩く人となった。御言葉に従えば、私たちも湖の上を歩くことができるということではない。あなたもペテロのように御言葉に従うことが求められている。<br /><br /> 例話:舗装工事の証 ヤコブ 4:6「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」 <br /><br /> ところで、ペテロは、主から目を離し、荒れ狂う波を見て、怖くなり、海の中に沈み、溺れそうになる。<br />問題や困難の中を通されている人に、大切な教訓である。主イエスに目を留め続けることである。<br /><br /> 私たちは、周囲の人の言葉や状況や問題に気を取られ、心を奪われてはいけない。風や